「自分感謝祭」を開く大阪の応典院

18日(土)の日経夕刊のコラム「うたた寝」に「1年間の自分に向き合う」とのタイトルで大阪の応典院の「自分感謝祭」の紹介があった。

毎年12月下旬(今年は25日)に開かれる「自分感謝祭」では、1年を振り返るために「懺悔カード」と「感謝カード」が参加者に配られる。「懺悔カード」には「悲しみ、忘れてしまいたい思い出、誰にも言えない罪」を書き、「感謝カード」には「心躍った体験や出会い、頑張った自分へのねぎらい」を書く。そして般若心経を唱え、法話を聞いた後「懺悔カード」は火鉢にくべ、「感謝カードは」は仏像前に置き、交流会で掲示板に張られる。14年間続く行事だそうだが、参加者には若い人たちが多く、毎年来る人もいると聞く。

どんな寺かインターネットで調べた。

「檀家ゼロ、葬式・法事は一切しない」―。大阪にある浄土宗・應典院は、これまでのお寺の常識をひっくり返す、革命的なコンセプトを持つ。モダンな外観、NPOによる運営、劇場を兼ねる本堂…、それは、閉鎖的な葬式仏教からの脱却をはかり、お寺本来が持つ力と信頼を取り戻すための試みだった。はたして今、社会から求められるお寺とは何か―。改革を担った僧侶自身がつづる、「寺院再生のシンボル」應典院の挑戦。

  • 葬式をしない寺―大阪・應典院の挑戦 (新潮新書)

と言う本の紹介文である。

第一生命経済研究所の主任研究員などを呼び、新たな葬送のあり方などの議論も行っているそうだが、たしかに地方の多くの寺院は檀家も減り、厳しい運営を迫られており、新しい時代の寺の有り方は、検討の余地大だろう。応典院は、演劇やワークショップなども行い、「人が集まる」、「いのち弾ける」、「呼吸するお寺」をスローガンに、地域の教育文化の振興に関する活動に特化した寺院として計画され、〈気づき、学び、遊び〉をコンセプトとした地域ネットワーク型寺院として生まれ変わったのだ。

秋田住職は言う。「喪失の痛みとか悲しみの感情を否定的にとらえるべきではない。きちんとそれらに向きあって区切りを付けることは、むしろ再生のために欠かせないプロセスと言っていい。このささやかな会が新たに歩む起点になれば」と「自分感謝祭」を位置付けておられる。

「自分感謝祭」に興味を覚えたが、「応典院」も面白い。

101%の努力で人生が変わる!

以前紹介した「感動3.0」(http://jasipa.jp/blog-entry/6163http://jasipa.jp/blog-entry/6170)の著者である感動プロデューサー平野英典氏が、12月に再度本を出版した。「Action Poem 1%の自分革命 感じて動けば未来は変わる」(プレジデント社)というpoem形式の本だ。平野氏の感動人間育成にかける活動に興味があり、週1回のメルマガも必ず読ませて頂いている。

その本のプロローグにある文章を紹介する。

  • 小さな一点の変化が全体の変化を促す。
  • 仕事や人生にも存在する一点突破のツボ。
  • 一つの出来事から、人生が変わることがある。
  • 一点の気づきから、才能がブレイクすることがある。
  • 一瞬の出会いから、未来が変わることもある。
  • 一歩の行動から、景色が変わることがある。
  • 一言の応援から、人を助けることもある。
  • 一筆の挨拶から、信頼が生まれることがある。
  • 一味違うアイデアから、社会が変わることがある。

未来を生み出すわずかな違いは、

  • 一つ
  • 一点
  • 一瞬
  • 一歩
  • 一言
  • 一筆
  • 一味
  • それは、誰にでもできて誰もがやっていないこと。
  • ジグソーパズルの一片のピースを見つけると
  • それまで停滞していた作業が一気に進むように、
  • 大きな変化を起こすきっかけは、
  • 心の内側のほんの1%の革命。

以下は、平野氏の従来からの考え方を推し量っての私の思いです。

200%頑張らねば成功しないのではなく、1%努力を上乗せするだけで人生はガラッと変わる(あまり高い目標を立てすぎると長続きしない!)。その1%を実らせるために、感謝・感動・感激を追い求めて、人は目標を立て、人間関係を拡げ、充実させ、そして本を読み、仕事をし、旅をする。一人閉じこもり、自分だけの世界だけに生きていたのでは1%の努力も実らない。自分の行動範囲、思考範囲を少し拡げて見ませんか。何かにぶつかることを恐れずに。苦難もあれば、楽もある。その中から何かが見つかり、自分を変えるチャンスとなる。

明治天皇が語る日本人の美質「教育勅語」

『世界から称賛される日本人の美質を育んだ「教育勅語」の真実』(伊藤哲夫著、致知出版社)を読んだ。「朕(ちん)惟(おも)フニ、我が皇祖皇宗、国ヲ肇(はじ)ムルコト・・・」から始まる教育勅語に関しての知識はほとんどなかったが、できた経緯とその意味を初めて知った。建国以来の日本人の美徳を「勅語」という形で後世に残した貴重なものであり、今一度噛みしめる価値のあるものと思う。

西洋文明が一気に流入した明治維新後の日本は、国中が思想的大混乱に陥り、日本の伝統的価値観や倫理観が失われんとしていた。そのような状況を憂いた明治天皇が、当時の文相・榎本武揚に徳育の基本となる箴言を編纂するよう命じられた。その命に従い東大教授などが文案を策定したが、当時法制局長官の井上毅(名は‘こわし’と読む。伊藤博文のもとで明治憲法策定にも中心的役割を果たした)がその案に反対し、自ら草案の起草にあたった。「天皇陛下のお言葉として出す以上、それは幾世にもわたって守り通さねばならない。そのためには、念には念を入れ、心には心を込めねばならない」として、明治天皇の側近だった同郷(熊本)の元田永孚の協力を得ながら、宗派や学派に偏らず、政治色も排し「王言の体」にふさわしいものとして創り上げたものと言える。

この教育勅語は日露戦争に勝ったあと、諸外国で大変な話題になり、これが日本の団結心と規律の高さに結びつく、と評判になったそうだ。そして、これが第2次世界大戦後、逆に諸外国の脅威となり、二度と立ち上がらないよう、昭和23年に国会決議で教育現場からの排除・失効させられた。しかし、この教育勅語がなければ、その後の明治、そして大正デモクラシーという思想的大混乱期を乗り切れなかったと伊藤氏は言う。

肺結核に倒れながら、最後まで起草に携わった井上毅氏は、その5年後51歳で他界された。彼の死後、皮下注射をした医者の「よくも衰弱したるかな。殆ど一滴の血すら残さず」と言う言葉が残っているそうだ。また後の大言論人たる徳富蘇峰は「彼は実に国家のために、その汗血を絞りつくしたり」と言ったそうだ。

儒教の五倫の教えを「爾(なんじ)臣民、父母ニ孝シ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信シ」と実に簡潔な美しい天皇の言葉として表現している。また「一旦緩急アレハ、義勇公ニ奉シ」の精神は、東日本大震災で殉職された消防隊員、警察官、市の職員の方々の行動に受け継がれている日本人の美質とも言える。

教育の荒廃が言われて久しいが、今一度、世界中から賞賛される日本人の美質を取り戻すために、教育勅語を思い返してみてはどうだろうか。

教育勅語

朕惟フニ,我カ皇祖皇宗,國ヲ肇ムルコト宏遠ニ,德ヲ樹ツルコト深厚ナリ。

我カ臣民,克ク忠ニ,克ク孝ニ,億兆心ヲ一ニシテ,世世厥ノ美ヲ濟セルハ,此レ我カ國體ノ精華ニシテ,教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス。

爾臣民,父母ニ孝ニ,兄弟ニ友ニ,夫婦相和シ,朋友相信シ,恭儉己レヲ持シ,博愛衆ニ及ホシ,學ヲ修メ,業ヲ習ヒ,以テ智能ヲ啓發シ,德器ヲ成就シ,進テ公益ヲ廣メ,世務ヲ開キ,常ニ國憲ヲ重シ,國法ニ遵ヒ,一旦緩急アレハ,義勇公ニ奉シ,以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ,是ノ如キハ,獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス,又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ,子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所,之ヲ古今ニ通シテ謬ラス,之ヲ中外ニ施シテ悖ラス,朕,爾臣民ト倶ニ,拳々服膺シテ,咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。

明治二十三年十月三十日  御名御璽

私の思い起こすことには、我が皇室の祖先たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。

 あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。

 このような道は実に、我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、国内だけでなく外国においても間違いなき道です。私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを希(こいねが)っています。

冲中一郎