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世界の誇る偉人の生涯:二宮尊徳(金次郎)

標題にある二宮尊徳の連載が「致知4月号」から始まった。著者は白洲次郎、稲盛和夫などの書籍を出版されてきた作家 北康利氏だ。

冒頭に武者小路実篤の言葉がある。

二宮尊徳はどんな人か。かう聞かれて、尊徳のことをまるで知らない人が日本人にあったら日本人の恥だと思う。それ以上、世界の人が二宮尊徳の名をまだ十分に知らないのは、われらの恥だと思ふ。

小学校時代、私の通った小学校にも二宮尊徳の像があった。しかし、伝記を読んだこともなく、漠然と、“歩きながらも勉学に励むすごい人”との印象があるだけだった。この像も最近では歩きスマホを誘発するものとして全国の小学校から撤去されているらしい。

これからも続く北氏の連載と関連して「致知5月号」には、二宮総本家当主二宮康裕氏と北氏の「二宮尊徳の歩いた道」と題した対談もあり、改めて二宮尊徳の歩んだ道に感動を覚えた。

北氏曰く「それほどまでに彼の人生は悲劇的なものであった。権力を握ろうとしたわけでも富豪を願ったわけでもない、ひたすらに世の安寧を願う無私の人生であったにも関わらず、生前には報われることもなかった」とし、彼の死に際して小田原藩からは葬儀も許されず、墓所は日光の報国二宮神社社殿の裏にあるそうだ。

“それほどまでに彼の人生は悲劇的”とあるように、14歳で父を、16歳で母を失い、弟たちとも別れ叔父に預けられる。金次郎の生きた時代は、自然災害の頻発、大飢饉による人口の減少、田畑の荒廃と農業の衰退、貨幣経済の浸透による富の偏在、財政破綻などいろんな問題が起きていた。金次郎の生まれる少し前には富士山の大爆発があり、近くの酒匂川の川底が浅くなり、頻繁に洪水や飢饉を起こしていた。そのため、叔父の家に預けられた金次郎は学問を続けるために、叔父に迷惑をかけないよう、友人から一握りの菜種をもらい、近くの川の土手にうえ、取れた菜種を油に換えて夜の読書を続け、また近所の人が田植えの時に残した捨て苗を近くの水たまりに植え、一俵あまりのコメを収穫していたという。このように幼い頃から苦難ばかりが続く中、人一倍苦労し、考え抜いた結果、卓越した知恵を身につけ、前人未到の境地に到達し、その叡智を惜しみなく社会のために還元した。そして、報徳仕法という独自理論を打ち立て、農業問題でも財政問題でも、彼にかかれば解決できない問題などなかった。直接、間接に再興を請け負った村は600を超え、孫尊親が手掛けたものも含めればその範囲は10道県に及ぶ。幕府にも名声は届き、最後は幕臣にも取り上げられたが、生活は質素なまま、恐るべき意志の力で自らを律し、多くの弟子を育て、ひたすらに「興国安民」を願った。しかし、故郷の小田原藩には、藩士の痛みを伴う肝心の報徳仕法は採用されず、“農民上がりの分際で小憎らしい相手”とみなされ墓所は日光となった。

しかし、死後の明治維新で評価は一転し、富国強兵殖産興業の大号令がかかり、農商務大臣井上薫の尊徳への絶大な評価もあり、急にもてはやされた。井上の盟友だった渋沢栄一がことのほか尊徳を尊敬していたこともあり、教科書にも登場し、全国に銅像が建てられ多くの人からの尊敬を集めた。他にも安田善次郎(みずほ銀行の祖)、伊庭貞剛(スミトモグループの祖)、豊田佐吉(トヨタの祖)、荘田平五郎(三菱地所の祖)、御木本幸吉、最近だと松下幸之助、土光敏夫、稲盛和夫といったそうそうたる経営者が、報徳思想を自らの生きる指針とした。

北氏と二宮総本家との対談の一部は下記で見られる。

二宮康裕 北 康利による特集記事 二宮尊徳の歩いた道|致知出版社 (chichi.co.jp)

今まさに国会議員の裏金問題が世間を騒がせている。最後は幕臣に取り上げられたが、生活は質素なまま、恐るべき意思の力で自らを律し、多くの弟子を育て、ひたすらに“興国安民”を願った二宮尊徳の生きざまを、今こそ国会議員にも勉強してもらいたい。