今日は、旧市街地をガイド付で観光後、午後と翌朝のほぼ1日間自由行動。
ドゥブロヴニクは「アドリア海の真珠」と称されるクロアチアの港町。ジブリ映画の「紅の豚」や「魔女の宅急便」の舞台として知られている。オレンジ色で統一された屋根が美しい世界遺産の旧市街地は、要塞を備えた強固な市壁が続き、特異な歴史とその景観が人々を魅了する街だ。
ドゥブロヴニクが誕生したのは614年。667年にドブロヴニクはラグーサ共和国と命名された。その後、ビザンツ帝国(9世紀)、ヴェネツィア(13世紀)、ハンガリー王国(14世紀)、オスマン朝から自らを守り、自治国家として自由を得るために、頑強な城壁を7~8世紀につくりはじめ15世紀に完成させた。1358年にハンガリー王国から独立し、オスマン朝時代の15世紀から16世紀にかけてアドリア海および地中海貿易で絶頂期を迎えた。しかし、1667年の大地震を契機に、そのころの地中海貿易の不振と相まって衰退が始まった。1806年にナポレオン軍に降伏し、ナポレオンのイタリア王国に併合されるまで、ラグーザ共和国は続いたのは奇跡とも言われる。
“旧市街”観光は、西側のピレ門から開始。北側には旧市街を見渡せる標高412mのスルジ山が見える(翌朝登頂)。門を入ると最も観光客で賑わうメイン通りプラツァ通りがある。15世紀前まではこの道は運河で、南側にローマ人、北側にスラブ人が住み抗争が絶えなかったが、時を経て双方の歩み寄りがあり、運河を埋め立ててプラツア通りが作られたとのエピソードがあるそうだ。
ピレ門を入って左側にある「フランシスコ会修道院」は、14世紀初頭、戦争から逃れるために城壁内に移ってきたフランシスコ会修道士のために作ったもの。回廊や中庭、世界で3番目に古い薬局がある。回廊の絵の下に各国の国旗が並ぶが、この修道院を要人が訪れた国を表しているそうだ(日本は2002年に黒田清子妃)。
旧市街の街並み。1667年の大地震で破壊された様子を写す壁写真もある。
ラグーサ共和国時代の総督の仕事場兼住居「旧総督邸」、十字軍戦争からの帰り道で難破した際に市民に命を救われたイギリスのリチャード獅子心王が感謝を表すために資金を寄贈して作られた「大聖堂」、税関や造幣局として作られた「スポンザ宮殿」。
ドゥブロヴニクをベネツィアの攻撃から守ったと言われる守護聖人を祭る「聖ヴラホ教会」、その前がルジャ広場で、その東側の門をくぐると旧港に出る。ここから湾内クルーズも体験できる(風のある時は要注意。木の葉のように揺れるそうだ)。
いよいよ約2kmの外壁を1周する。アップダウンの激しい道で、最高25mの高さもあるが、旧市街やアドリア海の眺めが素晴らしく、約2時間楽しみながら回ることが出来た。ここは必見だ(ただし、入場料は約3000円)。1991年の戦争の跡がまだ残る、屋根の色も未修復のものは薄汚い色のままだ。北西隅にあるミンチェタ要塞。ここからの見晴らしが最高だ。砲弾穴からの眺めは、額縁に収まった絵のよう。
翌朝、眺めが素晴らしいと言われるスルジ山にケーブルカー(実際はロープウェイ)で登った(これも往復約3000円)。天気も良く、素晴らしい光景に巡り合えた。
ホテルのビーチでは、20度そこそこの中、海水浴で楽しむ客が(ダルマチア海岸はヌーディストビーチが多いとか)。アドリア海の透明度と合わせてどうぞ。
今回も、天気に恵まれ、あっという間の6泊8日の旅だった。これまでのヨーロッパの旅とは一味違い、伝統的な建造物や美術館と言うより、景色を楽しむ旅だったともいえる。旅をご一緒した人たちも最初は「なぜクロアチア?」との問いかけに「ヨーロッパ旅行で残った最後の国だから」とおっしゃっていたが、旅が終わると皆さん「来てよかった」と感激されていた姿が印象的だった。
ご愛読ありがとうございました。