思わず「懐かしい!」と叫びそうになった詩が、「致知2012.9」に掲載されていました。当ブログで過去にも紹介した鈴木秀子氏の連載「人生を照らす言葉」の記事の中にあった。文学者上田敏が明治38年に出した「海潮音」というヨーロッパの訳詩集の中の、ロバート・ブラウニングの「春の朝」である。
時は春、
日は朝(あした)、
朝(あした)は七時、
片岡に露満ちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす、
すべて世は事も無し。
中学時代以来、特に目にすることもなかった詩であるが、なぜか今でも何も見ずに歌えるほど記憶に鮮明だ。鈴木氏のこの詩の解説を下記しておく。
「雪が解け新しい生命の息吹が溢れ出そうとする春。その中でも朝はすべての物事が躍動しようとする時間です。新鮮な空気に触れて私たちも気持ちを新たに一日のスタートを切ろうと言う気持ちが湧いてきます。岡の木々は露をしたらせ、朝日を受けてキラキラと輝いています。大空を見渡せば雲雀が啼きながら飛び交い、木の枝には蝸牛が自分なりの速さでゆっくりと這っている・・・。(中略)普通に日常生活を過ごしていると、そういう一瞬一瞬の奇跡をついつい見過ごしてしまいがちです。木の葉が露に濡れていてもその美しさに心がときめくことはありません。雲雀が啼いていても「春だから当たり前」と思ってしまいます。しかし、昇ってくる美しい太陽の輝きも、爽やかな目覚めも、朝の空気もすべて無条件に私たちに与えられているものばかりであることに思いを馳せるとき、心の奥底から静かな喜びと感謝の心が湧きあがってくるのではないでしょうか。」
なぜ、この詩が私にとって懐かしいか?その理由は定かではないが、恐らく中学時代弁論部の顧問の先生(国語担当)の指導により、防犯弁論大会(「防犯」と「交通安全」の大会が交互にあった)で、この詩を引用したのではないかと思う。弁論大会の本番前は、全校生の前で、あるいは教室で何度も何度も練習させられたが、その時の繰り返しで、リズム感のいいこの詩を体得できたのではないかと思う。あらためてこの詩を読むと、鈴木氏の言われるように、我々は大自然の生命、愛に包まれ生きている、日常の平凡に見える光景にも感謝と喜びの心を持つことが「本当の幸せ」と言えるのだろう。中学生時代、先生の指導、解説で、この詩が好きになったのかも知れない。その先生とは昨年亡くなられるまで、年賀状のやり取りをさせて頂いた。