11人の会社を6000人の一流企業に成長させたその秘訣とは?

その企業は、日立キャピタル。その立役者は、花房正義氏。「致知2015.9」に「誠こそすべての礎」と題した花房氏とTACT高井法博会計事務所代表社員高井法博氏との対談記事があり、その中で80歳になられる今でも「花房塾」と称し、各企業での講演などで全国を飛び回っておられる。岡山出身の花房氏の人生は、期待された跡継ぎを放棄して、画家を目指して東京に出てきたのがスタートだ。しかし、東京では美術学校にも入れず、仕方なく東京経済大学に入学。そこで出合った、経営学の大家「山城章先生」によって花房氏の人生は大きく開くことになった(山城先生は今は故人だが、今でも名だたる企業が参画している「経営道フォーラム」などを実施している「山城経営研究所」の発起人として花房氏は活躍された)。

大学卒業と同時に、創立間のない「日立家庭電気販売」に入社、月賦販売が始まり作られた「月賦販売」に異動、社員は社長含めて11人だった。その会社が「日立クレジット」になり、さらに「日立キャピタル」になった。その会社を牽引し、好業績で日立に貢献してきたことで、後日日立本体の取締役にも抜擢されている。

山城先生の教えに基づき、いろんな施策を実施してこられた。理念の明確化とその理念の実践のための行動指針策定、そして「人を愛して人を活かしていく企業」を目指すことなどだ。日立キャピタルで掲げた企業理念は「健全経営・人間尊重・社会責任」。行動指針で実体経済に基づいたクレジットビジネスに徹するなどを掲げ、サラ金など目先の利益を追求する単なる金融はやらず、徹底したサービスに特化することで、債権内容が高く評価されダブルAの格付けをもらったそうだ。

花房氏の人を大切にする経営に興味を持った。「人を育てる楽しみをもっと意識せよ」と経営者によく言われるとの事だが、人を育てるにはまず、基本をしっかり根付かせることが大事で、その上で自由に働いてもらうことが大事と花房氏は言う。「自由・自己責任・自助努力」の3つの言葉を言い続け、決められたことや、上から言われたことだけをやると言うのではなく、自分自身で考えて行動すべしと言うことを徹底された。さらに、リーダーの条件として「改革者・人間愛・自己規律」を挙げられる。

成長する企業と言うのは、煎じ詰めると、社員もお客さまもすべて、人を愛し、人を活かす企業だと思うんです」との花房氏の言葉は、11人の会社を6000人の一流企業に育て上げ、日立本体からもその業績を高く評価された人の言葉として、大きな重みをもって強い共感を覚える。

”感謝“の心を、今一度考えて見ませんか!

当ブログでも、自分の幸せ、周囲の人の幸せ、会社の同僚の幸せのために”感謝の心“の必要性を説いてきた。当ブログで何回か登場して頂いた鈴木秀子さんの記事を紹介したい、鈴木氏は、80歳を超えても、今なお「幸せな生き方」に関して全国を回ってお話しされたり、本(「幸せになるキーワード」など)を出版されたりと大活躍されている。(記事は「致知2015.7」の連載「人生を照らす言葉」より)

北原白秋の様々な苦難を乗り越えた人生を顧みながら、「からたちの花」等の童謡を世の中に送り出し、50歳前後から視力を失ったあとも創作意欲は衰えず57歳で亡くなるまで著作は2000冊に及ぶ白秋の人生を「苦難を受け入れた時、深い幸せに気付く」と鈴木氏は評する。「1人ひとりが愛と幸せの発信地に」とのタイトルでの記事を紹介する。

私たちの幸せは他人から与えられるものではなく、自ら作り出していくものです。その時どうしても見落としがちなのがあたり前のことに感謝の気持ちを持つことです。私たちが日常生活で抱く激しい感情や深い悲しみ、爆発寸前の怒りは、海に例えれば大きな波のようなものです。波が強烈なだけに水面下に隠れている穏やかな喜びや静かな感動、小さな幸せは気付かないままに見過されてしまうことが多いのです。しかし、この当たり前のものに目を向けて行った時、そこにこそ一過性ではない本当の幸せが隠れていることを忘れてはいけません。それは、健康で生きていられること、歩いたり走ったりできること、働く職場があること、家族と団らんの時間を過ごせることといった些細なことで、いくらでも数え上げることが出来ます。もし、幸せと言うものが分からなくなったら、当たり前のように思える、この小さな幸せを一つ一つ数え上げて見たらどうでしょうか。ただそれだけで幸せ感覚が戻ってくると思います。当たり前と感じていた出来事に感謝の心が生れ、生きているその事自体に喜びを感じるようになった時、その人は既に「愛と幸せの発信地」となって、社会を照らしているのです。そういう人が一人、二人と増えていくことで、この社会もきっと明るくなるでしょう。

幸せはいつも自分の心が決める」相田みつをの有名な言葉を思い出させるが、幸せは身近なところに“あたり前”の形で一杯あり、考え方ひとつですぐ気づけるもの。幸せになるために“感謝の心”を自分の中に探してみませんか?

日露戦争を勝利に導いた乃木希典大将の人間力!

乃木希典は、吉田松陰と関係がある?乃木は、小さい時は病弱で臆病だったため、親が立派な武士となるよう厳しく躾けていたが、希典は15歳の時、学者になる夢を追いかけて松下村塾を創生した吉田松陰の叔父である玉木文之進(乃木家の親戚でもある)への入門を乞う。玉木文之進は今NHKで放映中の大河ドラマ「花燃ゆ」で奥田瑛二が演じている。吉田松陰も厳しい指導を受けた人だ。文之進は「亡き松陰のような人間になれ」と口癖のように言いつつ、「この郷、宝玉多し。謹んで清貧を厭うことなかれ」(素晴らしい地位を与えられても清貧を忘れず、決して傲慢になってはならない)との言葉をはなむけの言葉とした。

乃木夫妻の崇高な精神を永世に伝えようと有志が希典死後12年経った大正12年創建した乃木神社(東京ミッドタウン)の名誉宮司高山亨氏が「乃木希典の生き方」を「致知2015.9」に投稿されている。乃木神社は、文武両全、夫婦和合の神様として多くの方が参拝されているそうだが、それだけ乃木希典を慕う人が今でも多いと言える。

希典が軍人の道を歩み始めたのは明治維新後、希典20歳を過ぎてからだ。山県有朋の推挙で陸軍少佐に若くして大抜擢され、秋月の乱や西南戦争で軍功を立てたが、西南戦争で軍の魂とも言える軍旗を西郷軍に奪われ意気消沈し、山県からは不問とされたが、責任を感じ、幾度も自害を試み約10年間酒におぼれた放蕩生活を送った。生活を立て直す契機になったのはドイツ陸軍の調査の為約1年半、軍参謀総長のモルトケから教育を受けたことだった。帰国後、日清戦争で旅順港を1日で陥落させ、台湾総督時代は蔓延していた賄賂を絶つため綱紀粛正に努めた。そして、日露戦争において熾烈を極めた旅順要塞攻撃では、日本の3倍もの人員と火砲を備えたロシア軍に全く歯が立たず、戦法を要塞攻撃から203高地の総攻撃に切り替え、激戦の末ついに旅順を陥落させた。旅順要塞攻撃では乃木大将の指導力について厳しい非難や更迭を求める声が相次いだが、明治天皇が真っ向から更迭に反対され、その結果乃木大将による203高地での勝利を勝ち得ることになった。この戦いに勝利することで、日本が独立を確保でき、アジア史では白人絶対の時代にも終止符を打つことが出来た事を考えると、天皇陛下が乃木大将を継続させたことは大正解だったと言える。

高山名誉宮司は乃木大将の人間的魅力を語る。日露戦争開戦以来、乃木大将はほとんど睡眠をとることなく、厳しい冬も暖房を使わず、食事も兵士と同じものを食べて前線の兵士の苦痛を一緒に味わおうとしたと言う。息子も1兵卒として扱い、実際二人の息子は戦死している(次男は203高地で)。旅順攻略は勝利したが、155日間の戦いで59400名もの死傷者(戦死者15400名)を出したことで、明治天皇に涙ながらに「割腹してその罪を償いたい」と直訴したが、受け入れられず、その後黙々と全国の遺族と傷病兵を見舞う日々が始まったと言う。敵側のロシア兵の慰霊も行ったそうだ。そして明治天皇が崩御され、ご大葬が行われた大正元年、乃木大将と静子夫人は明治天皇に殉じて自刃を遂げられた。

戦後70年の今年、映画「日本のいちばん長い日」など、歴史を顧みる機会が圧倒的に増えた。戦争は絶対美化できないが、良心を持つ軍人や政治家がいたからこそ、「1億人玉砕覚悟の戦争継続」を訴え宮中を占拠した若手将校を制圧し、天皇陛下の玉音放送で戦争を終結でき、今の日本国が維持できた。国民を納得させる説明ができず「総理大臣の私が言っているのだから、正しい」と主張する日本のリーダーが描く未来像は大丈夫だろうか?