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今起きるかもしれない首都直下地震の怖さを実感!!(NHK首都直下地震ウィーク)

12月2日から8日まで、NHKが総力をあげて放送した”体感 首都直下地震ウイーク”。
12月2日 午後4時4分にマグニチュード7.3の地震が東京で発生したら…という想定で作成したVFX映像を駆使したドラマ「パラレル東京」。2日地震発生当日、2日目、3日目、4日目と状況が刻一刻変わる鬼気迫る放送現場の迫真のドラマを見て、その怖さを実感できた。NHKスペシャルだけではなく、ドキュメンタリー、あさイチ、シブ五時などでも取り上げられ、この1週間は目が離せなかった。NHKの目的は、30年以内に70%の確率で起きるとされる震災を体感することで、みんなが防災減災の必要性を「自分のこと」としてとらえることを目的としたが、これを見た方はその怖さを実感したのではないだろうか。以下、NHKの当該番組に関するインターネット記事から情報を拾いながら概説する。

2013年の内閣府被害想定によれば、冬の夕方に都心南部でマグニチュード7.3(東日本大震災は9.0)の地震が起きた場合、風速8mの風が吹いていると、首都圏全体で死者数2万3千人、全壊・焼失家屋61万棟、避難者720万人、経済被害95兆円にのぼると推計されている(20年間の損失は731兆円)。今回は首都直下地震を想定したが、30年以内に70~80%の確率でマグニチュード8~9の地震が予想される南海トラフ地震では、関東から九州まで範囲が広いこともあり死者32万人超、238万棟あまりの建物が全壊・消失すると推計されている。経済的な被害は220兆円超と国家予算の2倍以上(20年間の損失は1410兆円)。

発災4日目までのドラマでは、避難民が混雑する中で起きる”群集雪崩“(以前兵庫県明石市の歩道橋で死者が出た事故と同じ)の頻発や、高さ200メートルにも及ぶ炎の竜巻“火災旋風”など様々な“未知の脅威”が襲いかかる。SNSに飛び交うデマ情報で多くの人々が死傷。さらに大規模停電の影響で携帯電話の基地局がダウン、通信障害が広域で発生する、など大都会の知られざる弱点を見ていく。発災3日目以降の特徴は、揺れや火災から生き残った人々の命が、また別の形で脅かされ始めるという事態に突入する。中でも病院にたどり着きながら治療を受けられずに亡くなる人の数は、発災以降6千人以上に上るとされている。3日目には大きな余震も発生した。その余震で、回復しかけていた首都機能が再び失われた。各地で大規模な土砂崩れが発生し、被害が拡大する一方だ。さらに、東京東部の堤防が決壊しかけ、市街地に水が流れ込む恐れがあることが分かる。数万人を超える人たちが命の危険にさらされる。デマか事実かの判断が難しい。

首都直下地震の発生から1週間、1か月後、1年後、10年後の東京、日本はどうなるのか? 発災から4日間までの「直接的な危機」を運良く乗り越えたとしても、命を脅かす“二次被災”のリスクが次々に降りかかることが最新研究で明らかになってきた。発災1か月には、仮設住宅の不足などで、100万人を超える「住宅難民」が生まれ、東京から移住する「震災疎開」によって、家族離散に追い込まれる人も出てくるという。発災1か月には、仮設住宅の不足などで、100万人を超える「住宅難民」が生まれ、東京から移住する「震災疎開」によって、家族離散に追い込まれる人も出てくるという。そして、発災1年後、10年後、、、試算では経済損失は731兆円(20年間)にも及ぶとされ、膨大な震災がれきと圧倒的な人不足・重機不足もあって復興が大幅に遅れる恐れがある。日本社会が体力を失っていくリスクが見えてきた。

これまで、阪神淡路大震災(姫路にて)、東日本大震災(東京にて)と経験してきたが、あらためて震災に対する備えの必要性を実感させられた。早速、家具倒壊対策を取ったり、停電時に使えるガス器具を下におろしたり、食器などを棚の上から下へ配置変えしたり、パソコンなどを粘着テープで固定したりした。全国的に飲料水不足になることも予想され、1日大人3ℓ使うというが、1週間分でも二人で2ℓボトルを21本用意することになる。保存食も1週間分用意する必要があるが、何をどう準備するか、NHKの今回のシリーズ“生きるスキル”番組を参考に考えたい。姫路の空き家も住めるようにしておくなど、“震災疎開”も検討したいと思っている。

鎮魂の日、阪神大震災から20年!

今日1月17日は忘れられない日だ。この日は三連休明けの早朝だった。私の住んでいた姫路は震度4だったが、2階で寝ていて地震に気付き慌てて1階に降りた。食器棚から一部食器がドアの外に出ており、これは大変だと急いで着替え、車で会社に飛んで行った(10分強)。当時私は、広畑システムセンター所長でもあり、新日鉄製鉄所を動かす計算センターの計算機の状況が気になったからだ。計算機室に入ると、オペレーターはまだ気が動転しているようで、いまだ目の前で起こったことが信じられないような顔をしていた。当時は、巨大な固定ディスク装置が何台も並ぶ壮大な計算機室の中で、地震対策で固定している筈の装置が動いたとの事。どうしようもないと半ばあきらめ状態だったが、なんとか計算機は止まらなかったと言うことを聞き安堵したことをはっきり覚えている。SEたちがいるセンターに戻ると、大きな壁ガラスがひび割れていた。システムバグで呼び出しを受けたSEが、車で計算センターへ向かうとき、丁度震災が発生した時西に向かって走っていると西の空がピカッと光ったのを見たとのこと。

神戸がこんな大災害になっていることは、昼前に名古屋の同僚からの電話で初めて知った。幸い広畑製鉄所は生産への影響も最小限だったことから、大きな騒ぎにはならなかったが、お隣の神戸製鋼加古川製鉄所では岸壁のクレーンが倒れ大変なことになっていた。夜遅く自宅に帰ると、庭の灯篭が倒れ、横の壁に大きな穴が開いていた(灯篭が倒れるのは昔の基準では震度5)。

以降、大阪や東京に出張するにも不便で、当初は播但線、福知山線経由で4~5時間かけて大阪まで出ていた。しばらくして神戸の三田までバスが出るようになり、随分と時間が短縮になった記憶がある。大阪から切れ切れになった在来線で帰る時、神戸の惨状を目の当たりにし、阪神大震災の残酷さを目の当たりにした。大学に行っていた息子たちも帰ってきて神戸まで通いボランティアに精を出していた。いてもたってもおられない状況だったのだろう。

1995年は私にとっても、大きな転機の年とも言える。3月のサリン事件も遠く離れた東京の事件と思っていたが、広畑製鉄所在籍24年を終え、6月に初めて住むことになる土地東京への転勤辞令を受けたのだ。以来、私も阪神大震災と同じく、今年で東京生活20年になる。

東日本大震災ももうすぐ4年だ。神戸もやっと大震災前の人口が元に戻ったと言う。が震災未経験者が44%だと言う。活断層だらけの日本はどこでも震度7クラスの大地震が起こる可能性があると言われている。今日は新聞もテレビも阪神大震災特集だ。常に危機意識を持って行動するためにも、このような経験を風化させず、語り継いでいくことが必要だ。今日1日はしっかりと20年前を思い出しながら、防災を考えながら気を引き締めたい。

当ブログを初めて3年経ちました。3年前と言えば東日本大震災!

2011年3月24日、東日本大震災から13日後でした。4月からJASIPAの仲間に入れてもらえるということになり、前職で社員向けのブログを4年半やっていたことをご存知のある理事の方(kin29○○)から「是非に」と薦められ、始めたのがこの日でした。その日の内容はやはり大震災の事でした。以下にその記事(http://blog.jolls.jp/jasipa/nsd/date/2011/3/24)を再掲する。

ある人からメールを受け取りました。 その人はアメリカにいる友人から教えてもらったそうです。 日本の高校生が震災後立ちあげたツイッターサイトだそうです (http://prayforjapan.jp/message/ )。
感動が涙を誘います。日本だけだはなく、世界にも暖かい心の人が一杯います。 何も出来ない自分に、電車が動かないことに不満を言う自分に、政府・東電の対応に文句を言う自分に、日本の経済の行末を嘆く自分に、前を向いて「何が出来るか」まずは考えろ!と発破をかけねば。 被災者の皆さんの「生きているだけで幸せ」の言葉の重みを噛みしめながら、家族を失いながら他人のために身を粉にして働いている方々のお気持ちを考えながら、自分の事しか考えていない自分を打ち砕かねば。 そして日本のために命を賭して動いてくれている方々(自衛隊、警視庁あるいは東電、日立、東芝、IHIの方などなど)に感謝の心を忘れず。 みんなで、今こそ日本の底力を結集しようではありませんか。

文中のURLサイトは今はないようだ。少し修正しておくが、高校生は間違いで「震災当夜、栃木県北部にある停電中の一時避難所で20歳の大学生によって立ち上げられた」というのが真相だったようだ。そのTwitterサイトでは、世界各地からの日本への祈りの言葉や応援メッセージ、写真など24時間で数十万件を超える数だったそうだ。それらのメッセージを国内のメッセージも合わせて、「10年後も20年後も、親から子供に語り継がれるものを作りたい」との使命感を持って、講談社が編集し、最初にサイトを開設した大学生鶴田浩之氏(慶応大学)が監修者となって1ヵ月半後(2011.4.25)に出版された「3.11世界中が祈り始めたPRAY FOR JAPAN」。あらためてその本を読み返した。こんなに日本に、東北に世界の暖かい目と心が集まったことに湧き出た希望の光が鮮やかに蘇り、思わず目頭を熱くする。鶴田氏は、本の最後の謝辞に、「これは、きっと日本の財産になる」、そして数々の応援メッセージに「世界中の人々が、日本を見守っている」との想いでPRAY FOR JAPAN.JPを立ち上げたとある(この本は今でもアマゾンで売っている)。被災地は、まだ復興半ばだが、この経験を風化させないためにも語り継いでいかねばならない。アベノミクスは評価できるが、それに酔い痴れ、福島原発事故の原因も未解決で、廃炉も汚染水も先が見えない中で、経済最優先で原発輸出・再稼働に走るのは、日本を見守ってくれている世界の人々の気持ちを考えると如何なものかと思う。収束の見込みを立ててからでも遅くない。その方が日本の底力を見せつけ、世界における日本の評価、存在感も上がることになるのではないだろうか。

ブログ3周年の今朝、当時のブログを読み返しながら、東北復興に思いを馳せることが出来た。当ブログで545件目。最近1年は以前に比しペースは落ちてきたが、3年間平均してほぼ2日に1回ペース。時々過去のものを見ながら、想いを新たにしている。正直かなりきついが、自分の勉強のためにも、ペースは落ちるかもしれないが、これからも継続していきたいと思っている。これからもご支援よろしくお願いします。