乃木希典は、吉田松陰と関係がある?乃木は、小さい時は病弱で臆病だったため、親が立派な武士となるよう厳しく躾けていたが、希典は15歳の時、学者になる夢を追いかけて松下村塾を創生した吉田松陰の叔父である玉木文之進(乃木家の親戚でもある)への入門を乞う。玉木文之進は今NHKで放映中の大河ドラマ「花燃ゆ」で奥田瑛二が演じている。吉田松陰も厳しい指導を受けた人だ。文之進は「亡き松陰のような人間になれ」と口癖のように言いつつ、「この郷、宝玉多し。謹んで清貧を厭うことなかれ」(素晴らしい地位を与えられても清貧を忘れず、決して傲慢になってはならない)との言葉をはなむけの言葉とした。
乃木夫妻の崇高な精神を永世に伝えようと有志が希典死後12年経った大正12年創建した乃木神社(東京ミッドタウン)の名誉宮司高山亨氏が「乃木希典の生き方」を「致知2015.9」に投稿されている。乃木神社は、文武両全、夫婦和合の神様として多くの方が参拝されているそうだが、それだけ乃木希典を慕う人が今でも多いと言える。
希典が軍人の道を歩み始めたのは明治維新後、希典20歳を過ぎてからだ。山県有朋の推挙で陸軍少佐に若くして大抜擢され、秋月の乱や西南戦争で軍功を立てたが、西南戦争で軍の魂とも言える軍旗を西郷軍に奪われ意気消沈し、山県からは不問とされたが、責任を感じ、幾度も自害を試み約10年間酒におぼれた放蕩生活を送った。生活を立て直す契機になったのはドイツ陸軍の調査の為約1年半、軍参謀総長のモルトケから教育を受けたことだった。帰国後、日清戦争で旅順港を1日で陥落させ、台湾総督時代は蔓延していた賄賂を絶つため綱紀粛正に努めた。そして、日露戦争において熾烈を極めた旅順要塞攻撃では、日本の3倍もの人員と火砲を備えたロシア軍に全く歯が立たず、戦法を要塞攻撃から203高地の総攻撃に切り替え、激戦の末ついに旅順を陥落させた。旅順要塞攻撃では乃木大将の指導力について厳しい非難や更迭を求める声が相次いだが、明治天皇が真っ向から更迭に反対され、その結果乃木大将による203高地での勝利を勝ち得ることになった。この戦いに勝利することで、日本が独立を確保でき、アジア史では白人絶対の時代にも終止符を打つことが出来た事を考えると、天皇陛下が乃木大将を継続させたことは大正解だったと言える。
高山名誉宮司は乃木大将の人間的魅力を語る。日露戦争開戦以来、乃木大将はほとんど睡眠をとることなく、厳しい冬も暖房を使わず、食事も兵士と同じものを食べて前線の兵士の苦痛を一緒に味わおうとしたと言う。息子も1兵卒として扱い、実際二人の息子は戦死している(次男は203高地で)。旅順攻略は勝利したが、155日間の戦いで59400名もの死傷者(戦死者15400名)を出したことで、明治天皇に涙ながらに「割腹してその罪を償いたい」と直訴したが、受け入れられず、その後黙々と全国の遺族と傷病兵を見舞う日々が始まったと言う。敵側のロシア兵の慰霊も行ったそうだ。そして明治天皇が崩御され、ご大葬が行われた大正元年、乃木大将と静子夫人は明治天皇に殉じて自刃を遂げられた。
戦後70年の今年、映画「日本のいちばん長い日」など、歴史を顧みる機会が圧倒的に増えた。戦争は絶対美化できないが、良心を持つ軍人や政治家がいたからこそ、「1億人玉砕覚悟の戦争継続」を訴え宮中を占拠した若手将校を制圧し、天皇陛下の玉音放送で戦争を終結でき、今の日本国が維持できた。国民を納得させる説明ができず「総理大臣の私が言っているのだから、正しい」と主張する日本のリーダーが描く未来像は大丈夫だろうか?