世界初のターミナルデパート(梅田駅に5階建の阪急ビルディング)が出来たのが、大正9年、そして御堂筋正面に地上8階、地下2階というどでかいビルを建て昭和4年にぎにぎしく開業したのが「阪急百貨店」。鉄道会社が直営で百貨店を経営するなどと言った事例は海外にもなく、その前途に疑問を持つものも少なくなかったそうだ。が、世界恐慌のさなかでも、多くの客を集めたそうだ。これを見て他の私鉄も追随し、東急グループが渋谷に東横百貨店(昭和9年)、大阪電気軌道(後の近鉄)が、上本町駅に大軌百貨店(後の近鉄百貨店)を開業した(昭和11年)。未開発の地域に電車を走らせ、その沿線に分譲宅地や、レジャーランド、宝塚歌劇場などを次々に開発させていった小林一三氏。
「PHP Business Review松下幸之助塾」に連載されている「小林一三~時代の十歩先が見えた男(作家北康利著)」の第9回(2013・1/2号)の記事が面白い。この記事の中で、特に興味を持ったのは、一三の指導を受けた渋沢英一の4男渋沢秀雄が「小林一三翁の回想」で記した「先生は意見も言動も青年のように素直で新鮮だった。そういえば小林先生は、いろいろな事業の面でも、大衆に楽しさ、便利さの貸勘定を残していった人かも知れない」というところだ。北氏はそのエピソードとして、富裕層対象と思いがちな阪急百貨店の食堂での一こまを挙げている。食堂の売れ筋は当時カレーライスだった。そのカレーライスにかけてもらうため、卓上にはウスターソースを置いていたところ、ライスだけを注文し、それにソースをかけて食べる客が出てきた。それが誰云うことなく「ソーライス」と呼ばれるようになった。食堂側は儲けにもならず「ライスだけのご注文はご遠慮くださいませ」との張り紙をした。しかし、一三はこうした客も歓迎するよう命じた。「確かに彼らは今は貧乏だ。しかしやがて結婚して子供を産む。その時、ここで楽しく食事をしたことを思い出し、家族を連れて来てくれるだろう」と諭したという。そして新聞広告にまで「当店はライスだけのお客様を歓迎します」と出し、彼自身が食堂で福神漬の瓶を持ってお客によそってまわったりしたが、ライスだけの客には特に福神漬の盛りを多くしたと言う。
東洋製缶の創始者高崎達之助(後には吉田茂に見込まれて電源開発総裁や、通産大臣なども歴任)がアメリカで缶詰業について学んで帰り、大阪で起業しようとした際にアドバイスをしている。その恩で、阪急沿線の土地を購入することにしたが、「君はバカだね」と一蹴され、「大阪を知るのに郊外に住んでどうする。会社が北なら南に住んで朝夕の通勤で大阪を知る位の頭が無ければ大阪では仕事が出来ない」と。高崎氏は回想録で「それがどんなに私の仕事を益したか、計り知れない」と言っている。
後に東急グループに発展する田園都市開発株式会社の支援を第一生命保険設立者の矢野恒太より依頼され(渋沢英一が設立したが、資金繰りに困り矢野への支援要請があった、その流れで一三に来た)アドバイスをしていた。しかしアドバイスがなかなか実行されないのに堪忍袋の緒が切れ、実行力のある人と言うことで一三が推薦したのが、後年東急帝国の総師として君臨した五島慶太だ。一三の追悼式で五島は「東急の経営は阪急の方針をとり、すべて小林イズムを踏襲してまいりました」と述べて感謝の意を示した。田園調布が今あるのも、東京工業大学が大岡山に有る(蔵前から移した)のも小林一三のお蔭とも言える。
成功が人脈を作るとも言えるが、その人脈で今日を作った小林一三はすごい人だ。その基本は「お客様」、それも将来を見据えた考え方と行動力がなんともすさまじい。過去に学ぶものは無尽蔵にある。