中欧4か国人気都市めぐりの旅~その5~

4日目はプラハを出て、スロバキアの首都ブラチスラバを目指す。約330kmの工程だ。

プラチスラバ

プラチスラバに到着すると。まず見えるのは丘の上の城だ。「ひっ くり返ったテーブル」の愛称で地元の人々に親しまれているブラチスラバ城だ。4隅にテーブルの脚のように塔が建っていることからそう呼ばれるそうだ。起源は紀元前だが、16世紀に四翼を持つルネサンスの宮殿に立て直され、18世紀にハブスブルグ家の領袖マリア・テレーザの居城としても使われた(マリア・テレジアはオーストリア大公であると同時にハンガリー女王でもあった)。広場に進むと、聖マルティン教会が見える。14 世紀初頭から約 200年間かけて建てられた教会。1741年にはマリア・テレジアもこの教会で戴冠したそうだ。チェコにもあったが、広場にペスト終焉を祈念する塔が建っている。

旧市街地の様子だ。中欧全般が音楽の街で、モーツアルトやリストのレリーフが壁に貼り付けられている記念館があった。石畳の奥の塔は旧市街を囲む城壁に付いていた 4つの門のうち、現存する唯一の門「ミハイルの門」。3つの門はマリア・テレーザが、この街のさらなる発展のために壊したそうだ。武器庫としても使われていた。

中世より市の中心広場として使われたフラブネ広場で、様々な市の催しや集会・処刑などが行われ、また市場が立ったとか。最初の写真が旧市庁舎で現在は博物館。次の写真で旧市庁舎の右隣が日本大使館。広場にはロランド噴水(像はオーストリア皇帝マクシミリアン 2世?)があり、ブラチスラバ最古の公共水汲み場でもある。このあたりの通りには、ナポレオンの像などいろんな像があるが、絵葉書などでも有名なのが「マンホールから覗く像」。ユーモアあふれる像が町に点在している。

フビエズドスラボボ広場に出ると、国立オペラ劇場がある。門の中に、ベートーベン、ゲーテ、モーツアルト、リストなどの像が建っている。オペラ座から右を見るとスロバキアフィルハーモニーのコンサートホール、通りを挟んで右には五つ星のカールトンホテル(1871建立)。そしてプロムナード公園が続く(この一角にアンデルセンの像があり)。

その後、最初に見たブラチスラバ城にバスで行く。ドナウ河と旧市街を見下ろす小高い丘に建つ街のシンブル的建物。内部は博物館。ここから見るドナウ河の光景はすばらしかった。

ブラチスラバには4時間ほどいて、その後、ハンガリーのブダペストへ。この日が最も工程が長く、ブダペストまで約190km。ブダペスト到着し、夕食後ドナウ河クルーズで夜景を楽しんだ。

中欧4か国人気都市めぐりの旅~その4~

プラハ旧市街地

カルレ橋を渡ってから、お土産店が並ぶ石畳(カレル通り)を進み、旧市街に広場に向かった。まず見えるのは旧市庁舎。プラハは「百塔の街」と言われるように尖塔があちこちにある。旧市庁舎の横にあるのは1410年頃に作られた塔(ゴシック様式)だ。上の文字盤が時計、下の文字盤がカレンダーになっている。毎正時に時計の両横の人形と時計の上の二つの箱の中から出てくる人形がからくり芝居を演ずる。プラハ旧市街広場には人が一杯集まっている。そこから見た聖ミクラーシュ教会。13世紀の初めにロマネスク様式で建てられたが、18世紀にバロック様式に改築されたそうだ。そして広場の真ん中にヤン・フス像。ヤン・フスは、チェコの宗教改革の先駆者として知られている。当時のローマ教会の堕落を厳しく批判したため、1415年に火あぶりの刑になり死亡する。以後、チョコにおける信者(フス派)は、ローマカトリック教会と戦うことになる(フス戦争)。中央のやや右に見える2つの塔をもつ建物は、百塔の街プラハの象徴とも言えるティーン教会(外部はゴシック様式、内部はバロック様式)。広場ではオープンカフェで日差しをまともに受けながら多くの人が飲み食いしている。日本人には日差しがきつくて日陰に入りたいほどの気候だが・・・。

カレルシュテイン城

昼食後、向かったのはプラハからやく20kmほど離れたところにある、カレルシュテイン城だ。このお城は14世紀にチェコ国王かつ神聖ローマ帝国皇帝でもあったカレル四世によって、帝国の宝物庫(聖遺物庫)として建てられたものだ。深い森と岩で囲まれた小高い丘の上にある。歴代の皇帝が夏に避暑に来ていたところでもある。その道中、バスの車窓から一面菜の花畑の光景が続いた。そして、到着後、坂道を馬車で上がることにした。内部には、「騎士の間」や「王の寝室」などがそのまま残されている(トイレも)。聖母マリア礼拝堂の壁には、14世紀に描かれたユニークなヨハネ黙示録のフレスコ画を見ることが出来る。

プラハの創業500年前のビアホ―ルで盛り上がる

プラハに帰ってからは夕食だ。創業は1499年、プラハで最も古いビア・ホール「ウ・フレク」。敷地内の醸造所では、このレストランでしか味わえない黒ビール(一杯サービスでつく)が、170年間同じ製法を守って造られている。このレストランでは黒ビールしか扱っていない。メインディッシュは「グヤーシュ」。蒸しパンと一緒に食べる。食事中、生演奏があり、客のドイツ人、ロシア人、中国人、そして日本人がそれぞれの国の音楽に合わせて合唱しながら、1階席、2階席全体が手拍子で盛り上がる。隣のロシア人と腕を組みながら歌い始める。「里の秋」「上を向いて歩こう」「知床旅情」など日本人客向けの音楽も奏でてくれた。

夜はプラハに宿泊し、翌4日目はスロバキアの首都ブラチスラバ見学後、ハンガリーのブダペストに入り、夜景の美しいドナウ河クルーズを楽しんだ。次回紹介したい。

中欧4か国人気都市めぐりの旅~その3~

チェスキークルムロフから約180km、チェコの首都プラハへやってきた。ここで2連泊だ。3日目は世界遺産のプラハ歴史地区とカレルシュテイン城見学だ。

プラハ

プラハは、千年の歴史を持つ都市であり、1346年神聖ローマ帝国皇帝カルレ4世(ボヘミア王カルレ1世)の時、首都がプラハに移され、プラハ城の拡張、中欧初の大学カルレ大学の創立、カルレ橋の建設とヴォルタヴァ川(モルダウ川)東岸市街地の整備など都市開発が行われ、ローマやコンスタンティノーブルと並ぶヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展した。第一次・第二次世界大戦の被害にも会わず、ロマネスク建築から近代建築まで各時代の建築様式が並ぶ「ヨーロッパの建築博物館の街」として世界遺産に登録された。

プラハ城

まずは、プラハ城から見学。敷地内には旧王宮や、宮殿、修道院などが建っている。中でも圧巻は聖ヴィート大聖堂だ。火薬橋(橋の下は鹿ノ谷)を通り、衛兵の立つ門をくぐると、現在の大統領執務室と迎賓館のある第二の庭に出る。

次に門をくぐると、第三の庭に出る。とそこに大迫力の聖ヴィート大聖堂が現れる。建て始めたのが1344年、完成したのが1929年で、聖ヴァーツラフの殉教1000年記念の日に、完成した姿で公開されたそうだ。残念ながら、ミサ参加者しか中に入れないとかで外から見るしかなかった。ゴシック様式の教会には、出入り口に塔が設けられている。(3枚めの写真)左に見える西側の塔は82メートルあり、中央に見える南側の塔は、この教会で一番高く、96.5メートルある。城の敷地内に大聖堂があるという例はヨーロッパでも珍しく、プラハ城の荘厳さを増している。プラハ城内最古と言われる10世紀に建立の聖イジー教会は赤茶色のロマネスク建築物。衛兵のいる出口に着いた。出口の後ろの白い建物は「黒い塔」と呼ばれる牢屋だそうだ(金を借りても返さない人が入れられた)。その塔の前の木が紫色の花をつけた桐の花。丁度10時の衛兵交代式を見ることが出来た。この出口から見た街の風景は、チェスキークルムロフほどではないが、素晴らしい光景だ。プラハ城の下の建物は大使館や学校などの建物だそうだ。

カレル橋

プラハ城を出て、旧市街地に通じるカレル橋(15世紀初めカレル4世の時代に作られたゴシック様式の橋)へ向かった。平日なのにカレル橋は人で一杯だ。橋の両側に27体(最初は30体あった)の歴史的な彫像が建っている(何体かはレプリカらしいが、半分以上は本物)。橋の右側に12世紀の修道院水車(悪魔の流れ?)が見られる。そして橋の真ん中に聖ヤン・ネポムツキー像がある。一説によると、ある日、彼は職務でジョフィエ王妃の懺悔を聞く。国王ヴァーツラフ四世は、王妃に不貞の疑いを抱き、ネポムツキーに告解の内容を明かすよう迫る。しかし、脅しても一言も漏らそうとしない態度に激怒した国王は、ネポムツキーの舌を切り取り、カレル橋から突き落として溺死させてしまった。この言い伝えを題材にレリーフは造られている。ちなみに、レリーフに手を触れると幸運が訪れるとの言い伝えから、触れられた部分だけが輝いている。像の前では、大道芸人などが華を添えている。橋を渡り終える直前にはフランシスコザビエルの像がある。何人かがザビエルを支えているが、そのうちの一人がちょんまげ姿の日本人と言われている。橋の東詰(旧市街地に通じる)の橋塔門を出て、橋の方向を見返すと、ヴォルタヴァ川越しにプラハ城が見渡せる。その反対側の光景と、カレル橋とプラハ城の光景を掲載する。

プラハはまだまだ続くが次回とさせていただく。