「日本人の誇り3」カテゴリーアーカイブ

日本人の特質が失われつつある(NHKスペシャル司馬遼太郎思索紀行)?!

最近、日本人論というか、世界の中で特筆すべき日本人の特質を論じる本や、マスコミの記事が目立つ。”グローバル化“の波に流され日本人の特質が失われていく現実に危機感を覚えるからか?2月13日、14日のNHKのスペシャル番組「司馬遼太郎思索紀行~この国のかたち~」で第1集「 “島国”ニッポンの叡智」と第2集「“武士”700年の遺産」を興味深く観た。

番組紹介には「2016年2月没後20年を迎える作家・司馬遼太郎。作品『この国のかたち』を読み解きながら、“日本人とは何か”に迫る。ナビゲーターは俳優の香川照之さん。第1集は“辺境の島国”がどのように日本人を形づくったのかに焦点を当てる。異国の文明に憧れ、貪欲に取り入れてきた日本人。そのメンタリティーの根源に何があるのか?司馬が日本の風土や人物に見いだした「かたち」を旅しながら島国の叡智を掘り起こす。」とある。 “奇跡”と呼ばれた明治の近代化、それを成し遂げた日本、戦後焼け野原から驚異的な復興を果たした日本、そして今大きな岐路に立つ私たち日本人。第1集では、島国という視点から私たち日本人の成り立ちを探る。

司馬が注目したのは、鉄を造るための反射炉と呼ばれる装置。その高さは実に20m、熱源と原料(銑鉄)を離した位置に置き、熱の反射を利用して鉄を造り出す反射炉、全く未知の技術が必要とされた。それを江戸時代に薩摩藩が、一冊のオランダの本から日本人独自で作り上げた。昨年世界遺産に指定された際、世界遺産登録推進協議会 専門家委員のバリー・ギャンブルさんは「最初に聞いたとき、とても信じられませんでした。外国人の助けもなく、一冊の本だけを頼りに短期間でつくり上げてしまうなんて、すごいと思いました」と語る。海に隔てられた島国で長く続いた鎖国。極限まで高められた好奇心は幕末驚くべきエネルギーとなり、あの反射炉へと繋がっていった。その異国崇拝の原風景として壱岐を紹介している。異国から流れ着いたもの(男性の下半身)を神社に祭り、土地の守護神として崇拝している姿だ。

毎年東大寺で、元々あった神道と新たに伝来した仏教を統合した(神仏習合)国宝の秘仏が公開され、神職と僧侶が参加する儀式を行っている。キリスト教やイスラム教など一神教の外国からは信じられない事らしい。また、奈良の三輪山では、岩にも木々や草花にも、山そのものにも多種多様な神が宿ると信じられてきた。八百万の神々、大陸から仏教が伝来する遥か前、豊かな自然の中で日本人が育んでいた多様な神々を認める信仰だ。一見無節操にさえみえるこの何事にもとらわれない発想にこそ日本人ならではの多様な考え方が表れていると、司馬さんはみた。小さな島国の中で固有の文化と外国からの文化が融合した室町という時についても言及している。書院つくり、茶道、華道、能狂言や謡曲もこの時代に興ったそうだ。その中で、応仁の乱で水どころではなかった時、水の代わりに砂を使うという既成のものにとらわれない柔軟な発想で生まれた枯山水の庭も室町時代のものと言う。明治の近代化の立役者として、日本の土木工学のパイオニア・古市公威(1854~1934)にも注目している。

「道なき道」を、外国に対する好奇心と、外国の文化・技術を積極的に受け入れる多様性、ただ単にまねるだけでは無く、日本の風土に合わせて改善する熱意・技術力、そして古市氏に見るような“公に資する精神”(私が1日休めば、日本は1日遅れる)が相俟って奇跡と言われる明治の近代化を成し遂げた。

日本のありようによっては、世界に日本が存在してよかったと思う時代がくるかもしれず、その未来の世のひとたちの参考のために、書きとめておいた」のが「この国のかたち」と言う。晩年、日本人が無感動体質になることを危惧していた司馬遼太郎さん、今、この伝統を引き継げているだろうか?

日本初の「第九」演奏はドイツ捕虜により四国の地で『心にのこる現代史』~その3~

年末の風物詩「第九」、この曲が日本で初めて奏でられたのは1918年6月1日。ウィーンでのベートーベンによる初演から94年後、場所は徳島県鳴門市大麻町板東。そして演奏者が日本に抑留されていたドイツ人捕虜たちだったとの事だ。

1914年第一次世界大戦勃発。日本はドイツに宣戦布告(日本は日英同盟の関係から戦争に参加)し、ドイツの拠点青島を日本軍が陥落させた。その際4700名ものドイツ人が捕虜になり日本各地の収容所に送られた。ところが日本には外国人捕虜の収容施設がなく、仕方なく徳島県鳴門市に板東俘虜収容所を新設、約1000人のドイツ人を収容した。板東は四国お遍路の一番札所の地でもあり、もともと地方からやってきた旅人を弘法大師の生まれ変わりと思い、大切にもてなしてきた風土があった。ドイツ人の捕虜も「ドイツさん」と呼び、捕虜をもてなしたそうだ。捕虜も街の人々に酪農のやりかた、パンの焼き方、ビールや楽器のつくり方などを惜しみなく教えるとともに、ドイツ様式の8本の石橋まで作った(今でもドイツ様式の石橋が2個残っており日独の懸け橋となっている)。収容所の中では、演奏会や演劇公演なども盛んに行われ、なんと3つのオーケストラと2つの合唱団が結成されたとか。そんな中で、技量を重ねながら取り組んだのが1918年6月1日の第九の演奏だった。

先勝国民と捕虜と言う立場を超えた暖かい交流が出来たのも、収容所所長松江豊寿所長の深い人間愛で支えられたからと白駒氏は言う。当時の政府からは「ドイツ兵を甘やかし過ぎだ」と何度も注意を受けたが、松江所長は「たとえ捕虜となっていても、ドイツの兵隊さんたちも、お国のために戦ったのだ。彼らは決して囚人ではない」との信念で、「弱者の誇りを保つ」姿勢を常に持ち続けたと言う。松江所長は、会津若松出身で、戊辰戦争で「朝敵」の汚名を着せられ、敗者の悲哀を味わった会津藩の悔しさを受け継ぎ、敗者に対するいたわりの気持ちが自然と出たのだろう。2年8カ月の捕虜生活を終えてドイツへ帰国する際に松江所長に言った言葉、

あなたが示された寛容と博愛と仁愛の精神を私たちは決して忘れません。もし私たちよりさらの不幸な人々に会えば、あなたに示された精神で私たちも臨むことでしょう。“四海の内みな兄弟なり(論語)”と言う言葉を、私たちはあなたと共に思い出すことでしょう

"第九“の演奏には「四海の内みな兄弟なり」という崇高な思いが秘められていた。ブログでも何度か紹介した感動プロデューサー平野氏(http://jasipa.jp/blog-entry/9271)は「恩贈り」との言葉を使っている。「恩返し」は恩をもらった人にお返しする事、恩をもらったのに知らんぷりをする人を「恩知らず」、もらった恩を自分の周りの人に送っていくことを「恩贈り」と。「恩返し」は当事者同士の関係性で終わるが、「恩贈り」は社会全体に広がっていく。

今、国内では「アンネの日記」が破られたり、「ヘイトスピーチ」が話題になったり、不穏な空気が漂っているが、日本人の持つ”思いやり“の精神を世界に広げ、戦争のない平和な世界を作るために、今一度「日本人の誇り」を取り戻し広げて行かねばと強く思う。白駒さんはそのために全国を駆け巡り活躍されている。

インドネシアの独立に日本が大きく寄与『心にのこる現代史』~その2~

日露戦争で、大国ロシアに勝ったことで、東南アジアの植民地各国が独立機運になったことは有名であるが、なかでもインドネシアは、オランダの植民地として350年低賃金で奴隷のようにこき使われた時代を乗り越え独立したのは、まさに日本のお陰と感謝する国民が多いと言う。第二次世界大戦で、エネルギー資源を確保するためのルートを確保するためにいち早く日本軍は東南アジアに進出。インドネシアでは日本軍はたった8日間でオランダ軍を追い払い統治した(1942.3~1945.8)。その時の日本軍のトップは、陸軍大尉の柳川宗成。その柳川大尉が“インドネシア独立の父”と呼ばれて、いまなお現地で讃えられているそうだ。統治開始時、居並ぶインドネシア人を前に挨拶した。“”我々日本軍はインドネシアの独立のためにやってきた。“”日本の進んだ文化や教育、その制度や仕組みをこのインドネシアの地で再現するから“”あなた達は来るべき独立の日に備えて、いち早くそれを身につけなさい。“”あらゆる民族にとって大切なことは“独立”なのです。350年間虐げられてきたインドネシアの人達は、なかなかこの言葉を信じることが出来なかったそうだが、日本人が学校を作って教育の機会を与えたり、道路の建設や、ひいては議会制度、裁判制度など近代国家に必要なものを整備し、導入を図った。さらには独立に備えて軍隊も組織化させ、厳しく鍛えあげたそうだ。オランダ統治下で決起し投獄されていた屈強の若者を開放しリーダーに仕上げていった(後の大統領スカルノ氏もその一人)。

終戦を迎えて、普通なら喜んで帰国するところ、多くの日本兵が、インドネシア独立の為にやり残したことがあると残ったそうだ。案の定、日本敗戦の報を受けて、オランダの攻撃を受けることになったが、日本兵も加わったインドネシア軍が4年半に及ぶ戦争の末に独立を果たしたのだ(日本人も数多く戦死)。

「戦争を起こしたこと自体も悪いことだし、ましてや同胞アジアの民族を支配するなんて絶対許されない事」という白駒氏に、インドネシアの私立大学の教授曰く「日本が長年統治していた台湾と韓国は、今は共に先進国になった。欧米が植民地支配していた国のどこが先進国になっていますか?」と。

白駒氏は「歴史上の出来事にはプラスだけの出来事もないし、マイナスだけの出来事もない。どんな出来事でも功罪相半ばするのだと言うことを学んだ」と総括し、戦争は絶対悪いことだが、日本人にしかできない行動が国内外で評価されていることも事実だ。

日韓関係が悪化している。お互いに戦争時のプラス面、マイナス面を素直に見詰めつつ冷静に議論できないものかと思うが、そう簡単ではないのだろう。いがみ合っていても、双方に何のメリットもない。