「朝倉千恵子」カテゴリーアーカイブ

「たこ焼き屋」で成功し、今は人財育成JAPAN社長でひっぱりだこ(永松茂久氏)

大分県中津市に生を受け(1974)、小学5年の時に近くのたこ焼き屋で手伝いをやっていた少年が、ダイニング「陽なた家」、居酒屋「夢天までとどけ」(ともに大分県中津市)、居酒屋「大名陽なた家」(福岡県福岡市)を経営し、いずれも口コミだけで、全国から大勢の人が集まる大繁盛店となっている。さらには、「一流の人材を集めるのではなく、今いる人間を一流にする」というコンセプトのユニークな人材育成で、数多くの講演、セミナーを実施し(累積動員数は延べ10万人)、他にも、執筆、人材育成、イベント主催、コンサルティングなど数々の事業展開をこなす、若手実業家となっている。その人の名前は永松茂久。

「PHP松下幸之助塾2016.3-4」の「朝倉千恵子の社会を変えたい人列伝」最終回に紹介されているのが永松氏だ。そのタイトルは「“フォー・ユー精神”の人を育てたい」。たこ焼きを手伝ううちに、お客が喜んでたべる姿に「将来たこ焼き屋になる」との夢を抱くようになったそうだ。その志を貫き通した結果が、今の状況につながった経緯の一部が紹介されている。まずは人との出会い。永松氏は「出会いに偶然はない。出会うべくして出会っている。”たこ焼き屋になるんだ“という一途な夢と熱い行動力とが、いい出会いを次々と引き寄せている」と言う。大学在学中に親父の勧めで流通ジャーナリストに会いバイトをしながら本の編集や、講演・セミナーの企画・運営の仕方などを勉強。大学卒業後、その会社に営業マンとして入社。するとクライアントに”オタフクソース“(お好み焼きやたこ焼き用ソースの製造卸ナンバーワン)があり、社長とも懇意になり通い詰める内に、たこ焼き研修センターで腕を磨くことに。オタフクの社長のお蔭で営業成績は良好。それが高じて、大阪周辺のたこ焼き屋を取材し、小冊子を発行。その取材が縁で「築地銀だこ」の社長と懇意になり、転職してさらにたこ焼き修業。そして、26歳で故郷中津で行列のできる”たこ焼き屋“を開業。そこから15年間、開業当初から人の金を当てにせず、一貫して自己資金で小さくはじめながら、冒頭のような店舗展開をして、一度も売り上げで前年割れをしていないと言う。

店で働くスタッフの扱いに困っていた時、攻隊基地で有名な知覧の特攻平和会館を訪れ、それまでの生き方が180度変わったと言う。前途ある若者たちが命を懸けて飛び発つ直前の心境に触れた時、自分は同じ状況に置かれた時、周囲の人や後世の人達に向けて、こんな風にしっかりとしたメッセージを伝えることが出来るだろうかと、自分の人生観が根幹から揺さぶられたそうだ。現状に不満を言い、先行きの見えない状況を周りのせいにしている自分にちっぽけさが心底恥ずかしくなったと言う。その後、何度も知覧に足を運び、「人生に迷ったら知覧に行け」と言う本にも書いたが、「自分中心に考える”フォー・ミー」の生き方から、誰かの為を第一に考える”フォー・ユー”精神に180度切り替えようと。そして、スタッフの意向を結集して作ったのが中津市の「陽なた家」、今の本店だそうだ。そのコンセプトは「みんなが集まって来たくなる”家“みたいな店」。スタッフにも、お客さんにも楽しんでもらえる店に向けて、ドンドンスタッフからアイデアが出てくる。年間300件の予約が入る”バースデーイベント“もスタッフのアイデアだそうだ。”フォー・ユー精神“に切り替えたらいろんなことがうまくいくようになった

このような経験を通して永松氏が言う”リーダーの役割“は、「自分よりはるかに優秀な人間を輩出する事、またそういう人が育つ場所をつくること」。当ブログでも紹介した(http://okinaka.jasipa.jp/archives/3840)ウルグアイのムヒカ前大統領の言葉らしいが、この言葉に共鳴し実行に移せたのはやはり知覧のお陰と言う。今は店の運営はスタッフに任せ、自分は自分の経験に基づいて「”フォー・ユー“精神の人を育てる」ための講演や出版に専念できるようになった。そして「陽なた家ファミリー」との社名も「人財育成JAPAN」に変えた。小学時代から”たこ焼き屋“に熱い志を持って生きてきた永松氏が、今は全国に”フォー・ユー精神“を広めるために精力的に動かれている。活躍を期待したい。

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ガマンならない男を副社長にした女性社長

多数の著書も著し、メディアにも引っ張りだこの㈱新規開拓の朝倉千恵子社長。小学校教員を経て35歳(平成9年)で「地獄の特訓」で有名な㈱社員教育研修所に入社。初めての営業経験ながら3年でトップセールスに。平成13年に独立し、平成16年に現会社を起業。

雑誌「PHP Business Review松下政経塾」に「朝倉千恵子の上司学―仕事ができて愛される<人>の育て方」が連載されている。名だたる企業の研修を担当されている朝倉氏の話にはなるほどと思わせてくれるものが多い。その中で、9回目の「ガマンならない男」を読んで、「なんとガマン強い女性社長!」と驚いた。

「地獄の特訓」の会社で採用面接を受けた際の面接官でもあり、採用後の営業担当の上司でもあった我満一成氏(記事に実名で掲載)。毎回感情を逆なでされるようなタイプの上司で、「なんやこのおっさん」と腹が立つことばかりで、いやでいやでたまらなかったそうだ。

しかし、独立した際、営業兼講師として外に狩りにでる自分を支え、会社を守ってくれる女房役として来てもらうことにした(我満氏も事情があって標記会社を辞めていた)。多少、トップセールスにまで育ててもらい、独立も出来たことで感謝の気持ちもあったようだ。しかし、感謝の気持ちも束の間、すぐに衝突が始まり、そのストレスで円形脱毛症になったことも一度ならずあったとか。しかし、時を経るにつれ、長年部門長を経験し、部下育成の面でも「勝てない」「うらやましい」と思うこともしばしばあり、敢えて人に嫌われることをする裏には実は全部狙いがあることがジワジワと分かってきたと言う。「未熟であるが故に自分は我満氏の真意が分からなかった」と自戒する。

今でも、ムカツク事はあると言うが、「私が最もきらいで、疎ましくて、それでいて最も尊敬する最高のパートナー。今はなくてはならない存在だ」と言い切る。そして「支えられて今がある。誰と出会うかによって人生は明らかに変わります。偶然の出逢いが縁になり、最高のきずなに深まった幸運に感謝しています」と語る。

社長と言うのはほんとにつらい責任を負うもの。普通だったら、頭に禿を作る位ストレスをためる相手を、社長の権限で叩き切るだろう(私だったら我慢できない?)。しかし、自分にない好いところを素直に評価し、会社を運営するためには絶対必要な人材との判断で、副社長として二人三脚の体制を作り、成功させた朝倉氏の手腕には感心させられる。感情に左右されない、素直な判断力と決断力が、ガマンを強いたのだろう。多くの部下を抱える社長のつらさでもあり、ガマン強さだ。

歴女が語る日本人の生き方

「致知2012.3号」に、「歴史が教える日本人の生き方」というタイトルで、“博多の歴女”として歴史講座を展開、「人生に悩んだら日本史に聞こう」との本も出されている白駒妃登美さんの記事が掲載されている(現在の職名は結婚コンサルタント)。

中学生の時「福翁自伝」に出会ってから歴史への関心が高まったと言う白駒さんは、大手航空会社の客室乗務員で世界を飛び回っていたが、結婚後退社し、子どもの世話に追われていた。ある人との出会いでブログに日本史のエピソードを綴り始め、それを一冊の本として出版したところ、福岡、東京から講演依頼が舞い込み、“博多の歴女”と呼ばれるようになったそうだ。そして多くの出会いに恵まれ、自分でも予想すらしなかった素晴らしい人生が展開できたと言う。

学生時代から欧米流の成功哲学(カーネギーやマーフィーなど)を信じ、「善悪」「損得」「勝ち組・負け組」といった二元論で、いかに勝ち組になるか、そのために受験、資格取得に頑張ってきた。が、この哲学では、「もっと、もっと」の欲望が際限なく広がり、達成感は得られても安心感や幸福感が生まれず、逆に敗北を恐れる気持ちばかりが高まってしまう。ある時、白駒さんは、子宮頸がんとの診断を受け、その後も転移が見つかり、医者から「子どもを誰にみてもらうか、よく家族と相談しておくように」と言われ、「負け組」ということで、これまでの笑顔がなくなり焦燥し切っていたそうです。その時、友人から「妃登美ちゃんが笑顔でなくても、どんなに不機嫌でも、生きていてくれるだけで嬉しい」の言葉をかけられ、その言葉が白駒さんの人生を変えたと言う。成功哲学二元論で、お金や健康など幸せに「条件」を求めていた自分にとって、友人の言葉の有難さを痛感した時、幸せは条件が決めるものではないと気付いたそうだ。

周囲を見渡すと、何気ない日常生活の中に、自分を応援してくれる家族や仲間がいること、日々食事を頂ける事など、喜びや感謝が一杯満ち溢れていることに気付いた。「たとえ病気が治らなくても幸せ」と感じた段階で昔の笑顔が戻ったそうです。そしたら医者から宣告を受けて3週間もしない内に、すべての癌細胞が消えていたとのこと。

人間の生き方には「目標達成型」とは別に「天命追及型」があるという。「天命追及型」とは将来の目標に縛られることなく、自分の周囲の人の笑顔を何よりも優先しながら、いま、自分の置かれた環境でベストを尽くす。それを続けていくと、天命に運ばれ、いつしか自分では予想もしなかった高みに到達するという考え方で、自分の夢だけを叶えるfor meより、周囲に喜びを与えるfor youの精神が優先される事だと言っている。歴史上の事例として、豊臣秀吉が紹介されている。秀吉は最初から天下統一を夢見たわけはなく、徹底的に信長に尽くし、喜ばせることに集中した。結果が夢を遥かに超えてしまった。

近年の脳科学の発見と言われる「成功したら幸せになるのではなく、幸せになれば成功する」の言葉もあるそうだが、あらためて人間関係を広め、感謝を忘れず、今にベストを尽くすことの意味を噛みしめたい。