当ブログでも土光敏夫氏に関する記事を何度か掲載しているが(例えば「日本のリーダー土光敏夫(http://okinaka.jasipa.jp/archives/89)」など)、土光氏の生き方に大きな影響を与えたと言われる母「登美」の人生にも強く心を打たれる。土光敏夫や登美に関する書を出版されている出町譲氏が「致知2016.3」に「正しきものは強くあれ~土光敏夫の母・登美の一生」と言う記事を投稿されている。
土光敏夫が勲一等旭日桐花大綬章を受けた(昭和61年)際のコメントに「私は“個人は質素に、社会は豊かに”という母の教えを忠実に守り、これこそが行革の基本理念であると信じて、微力を捧げてまいりました」とある。この言葉からも、土光というひとりの人間にとって、母の存在が如何に大きかったか分かる。
登美は陽気で明るく、周囲の多くの人から愛される人間であると同時に、小さい時から西郷隆盛や吉田松陰など、私心がなく公に尽くした偉人達の姿勢にも強く惹かれた向学心の塊のような人だったと言う。当時は、NHKの「あさが来た」の白岡あさの時代(幕末から大正にかけて)と同じように。「女性に学問の必要なし」と言う時代、54歳で岡山から上京したのも、一流の有識者に教えを請うためとか。登美の次女が言う。「母は常に成長していたと言う感じがしていたので晩年もあまり老人と言う気がしていなかった」と。
登美の人生のクライマックスは、横浜市の鶴見に橘女学校(現・橘学苑)を建てた事と言える。なぜ、学校の建立を思い立ったのか?当時は日中戦争はじめ対米戦争など戦争一色の時代。若い人たちが戦争に駆り出され、その有為な人生を無駄にすることを見るにつけ、「国の亡びるは悪に寄らず、その愚による」と、戦争のような愚かな行動に走らせない国民つくりが何よりも必要と考えていた。そして、子どもたちはお母さんのおっぱいを飲みながら育てられるのだから、女性をしっかり教育することが国の基礎を作ることになるとの考え方に至った。周囲が反対する中で、「香典を生きている間に下さい」と資金集めに奔走し、学校建設を宣言してからわずか3ヵ月で学校建設工事を始めると言う離れ技をやってのけたのだ。ともかく、国を愛する心、公に尽くすと言う心と言う面では西郷隆盛の存在が一際大きかったと出町氏は言う。女子教育の現場でも、「正しきものは強くあれ」など人生哲学を徹底的に教育した。
その母の薫陶を受けた土光敏夫の活躍は御存じのとおり。金権政治蔓延の中、85歳で行革の顔となり、経団連会長時代を含めて、豪勢な生活をする田中角栄に辞任を要求したり、政治献金の廃止、議員定数の削減提案など、歯に衣着せぬ物言いで、国民の評判を得た。今の時代、土光敏夫がいてくれたらと思うのは私だけだろうか。「女性活躍推進」が叫ばれ「生めよ、働けよ」が声高に言われているが、子どもの育成に占める母の役割にももっと言及すべきと考えるが、いかがだろうか?登美もまさに働く女性だったが、猛烈に働きながらも土光敏夫のような国を思い行動する人を育てた、母の力の偉大さに思いを馳せたい。