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自然は慈母であると同時に厳父である(寺田虎彦)

東日本大震災後、寺田虎彦(1878-1935)が話題にのぼることが多くなった。虎彦がなくなる前年の昭和9年に、函館の大火(3月・死者2200人)、北陸水害(7月)、室戸台風(9月・死者約2700人)、昭和8年には昭和三陸地震(M8.1・死者約3000人)と立て続けに災害が起こった。このことから科学者(地震学者でもある)寺田虎彦は、災害に対する警告として、いくつかの随筆を発表している。(「天災と日本人」寺田虎彦著、山折哲雄編、角川ソフィア文庫)

日本の気候、自然の多様性は、他国にはないことは知れ渡っている。古来日本では、この自然を、敬い、畏れながら、環境に適応してきた。この日本特有の自然と共生する中で、日本独特の文化・風土を生んできたと言う。随筆「日本人の自然観」より。

地震や風水の災禍の頻繁でしかもまったく予測しがたい国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑に浸みわたっている。・・・眼下の大地は母なる大地であると同時に、刑罰の無知を揮って吾々の兎角遊惰に流れ易い心を引き緊める厳父としての役割をも勤めるのである。

そして、文明が進めば進むほど天然の脅威による災害がその激烈の度を増すと言う事実を指摘している(「天災と国防」より)。

文明が進むにしたがって人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろな造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の驚異を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然が暴れだして高楼を倒壊せしめ、堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を亡ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものは誰有ろう文明人そのものである。

昔の人間は過去の経験を大切に保存してその教えに頼ることにはなはだ忠実であった。過去の地震や風雪に耐えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に耐えたような建築様式のみを墨守してきた。それだからそうした経験に従って造られたようなものは関東大震災でも多くは助かっているのである。

さらには、「やはり文明の力を買いかぶって、自然を侮りすぎた結果からそういうことになったのではないかと想像される。」と。

前稿に記した、釜石の湾口防波堤(1200億円、30年工事)や、宮古市田老地区の巨大防波堤が逆に被害を大きくした(安心して防波堤の近くに居を構えた)事実を見るとき、そして災害が起こる長サイクルを考えるとき、自然の「慈母」の姿に抱かれる日々の中で、「厳父」としての自然の怖さをどうやって次代、次次代に引き継ぐか、教育も含めて考えねばならないと思う。寺田虎彦の随筆を読むと、東日本大震災を受けて最近書かれたものとも思える位現実的に感じられる。90年近く経っても全く進歩していないというか、天災に対する我々の考え方・姿勢が文明の進歩に対応して退化しているように思える。