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終戦を決断した鈴木貫太郎内閣総理大臣

「致知2月号」のテーマは「先達に学ぶ」だ。「わが人生の先達」として5人が紹介されている。松下幸之助、稲餅和夫など名経営者が仰いだ二宮尊徳(作家北康利氏の記事)、“独立のすすめ”の福沢諭吉(明治大学教授齋藤隆氏の記事)、女子教育の先駆者で総理大臣の器とも言われた下田歌子(随筆家石川真理子氏の記事)、阪急電鉄や宝塚歌劇団等多くの事業を成し遂げた小林一三(逸翁・耳庵研究所向山建生氏の記事)、最後に、第二次世界大戦を終結させた第42代内閣総理大臣鈴木貫太郎の紹介を前地方総監海上自衛隊真殿智彦氏が紹介している。

今回紹介したいのは、第42代内閣総理大臣鈴木貫太郎だ。名前は知っているが、その功績を知らなかった故に、今回の記事で「言行一致の人」と紹介されていたので目を通した。私が最も注目したのは、1945年の大戦に終止符を打った時の総理大臣だったこと。開戦から3年以上たち、1945年に入った頃にはもはや敗北は決定的で、如何に幕引きを図るかが焦眉の急となっていた。鈴木は、その当時海軍にいたことから“軍人は政治に関与せざるべし”との信念から固辞していた総理大臣の職を、侍従長時代から昭和天皇の熱い信頼を得ていた鈴木に、天皇から「この重大な時にあたってもうほかに人はいない。どうか枉(ま)げて承知してほしい」との要請があり、最後の御奉公と腹を括ったそうだ。時に鈴木は77歳、日本の憲政史上最高年齢での総理就任だった。当時の国論は、相手に打撃を与えて有利な条件で講和を結ぼうとする一撃講和と、戦争終結を最優先する無条件降伏とで真っ二つに割れ膠着状態だったと言う。その間にも沖縄陥落、二度にわたる原爆投下で戦況は急速に悪化。一つ手を間違えれば国家運営瓦解の危機を孕む中、鈴木は天皇の聖断を仰いで無条件降伏を決定し、ポツダム宣言を受諾し4年近くに及んだ戦争は終結した。まさに鈴木総理の期間は1945.4.7~1945.8.17で、その後、終戦後3年にもならない1948年に死去された。

記事を書かれた真殿氏は、鈴木貫太郎と言う人物のすごさ、そして自身が最も尊敬する人物として語る。国家存亡の危機にあった我が国を終戦に導いた決断力を称える。陸軍参謀本部、海軍軍令部が戦闘継続を強く主張し、国全体が本土決戦も辞さない空気に包まれている中で戦争を終わらせた力量は並大抵のものではない。

真殿氏は、「鈴木は言行一致の人」と言う。宗谷の艦長を務めていた時、士官候補生に対する訓示で「奉公10則」を示したそうだが、その中に「言行一致を旨とし議論より実践を旨とすべし」とある。日露戦争でも30代の若さで魚雷開発の開発仕様に異を唱え、それが承認され日露戦争の勝利に貢献したこともあると言う。2.26事件にも会い、狙撃され瀕死の重体の中、襲撃部隊の長が、下士官がとどめを刺そうとしたところを止めたという逸話もあるそうだ。波乱万丈の中、意志を貫きとおした鈴木の言葉は出身小学校前橋市立桃井小学校の門前に鈴木の言葉が刻まれた石碑が立っている。「正直に腹を立てずに撓(たわ)まず励め」、鈴木貫太郎揮毫の石碑だ。この記事のリード文にもあるが、国家消滅の危機に瀕している我が国を終戦へと導いた鈴木貫太郎。その類い稀なる人間的力量に感謝の気持と共に頭が下がる。