戦時下”総力戦”に芸術家は何をしたか?(日経)

日本への原爆投下から46年、広島・長崎で原爆慰霊&平和記念式典が開かれ、近く終戦祈念日を迎える。戦後生まれの私としては、戦時中の話は、今年亡くなられた半藤一利氏の本などから知るしかない。日経の日曜版「The Style」の7月25日から連載されている「総力戦を生き抜く」は、“1937年に始まった日中戦争から敗戦までの8年間、日本は戦時体制一色に染まっていった中で、芸術家は何をしてきたのか”との新たな視点に興味を惹かれた。

7月25日の1回目は「演出された”明るい戦争“」だ。盧溝橋付近で発生した日中両軍の小競り合いがもとで1937年日中戦争が勃発。増兵のため第一次近衛内閣が総力戦に駆り出す「国民精神総動員」運動を展開。天皇陛下も反対し、お互いに宣戦布告もなしの変な戦争のため、国民の機運も高まらないことを心配した近衛内閣の一大キャンペーンだった。芸術家も駆り出され、横山大観竹内栖鳳などが政府のポスターの原画を寄贈したそうだ。地方自治体、企業なども巻き込んだ国家的な統制を強めたにも関わらず、戦時色の醸成は十分ではなかった。人々の心を揺り動かす決定的な出来事は1941年12月8日の真珠湾攻撃だった。真珠湾の華々しい成果に、高村光太郎や島木健作などもその感激を詩っている。「われら自ら力を養ひてひとたび起つ。老若男女皆兵なり。大敵非を悟るにいたるまでわれらは戦う(高村)」、「“妖雲を拝して天日を仰ぐ”というのは実にこの日この時のことであった。一切の躊躇、逡巡、遅疑、曖昧と言うものが一掃されてただ一つの意思が決定された。この意思は全国民のものとなった(島木)」。太平洋戦争の緒戦は、理念のはっきりしない日中戦争から解き放たれ、海外での華々しい戦績を明るく描くものだった。陸軍から派遣された画家鶴田吾郎作の「神兵パレンバンに降下す」は無数の落下傘が降下する華々しさがある。作家の伊藤整は、「大東亜戦争直前の重苦しさもなくなっている。実にこの戦争はいい。明るい」と記している。戦争画研究の第一人者の河田明久教授は「日ごろ実社会との関係が希薄な画家たちには、後ろめたさや居心地の悪さを少しでも解消したい」と次々と画家が従軍し戦争画を描いたと言う。そのような中で、太宰治は「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」と予言的な言葉を書き記している。

8月5日の2回目は、「我慢求め言葉を総動員」とのテーマで、「お国のために金を政府に売りましょう」、「230億我らの攻略目標」、「欲しがりません 勝つまでは」など、軍事費を確保するために国民に贅沢を禁じ、我慢を強い、厳しい思想統制を強いるためにあらゆる手段を講じたことを記している。

8月8日の3回目は、「銃後の女”奉公“の果てに」だ。「銃後の守りを固めなさい」「我が子を差し出しなさい」「産めよ、増やせよ」「子どもを健康に育てよ」など、いろんな使命を持った女性たちを鼓舞するためにも女流美術家が駆り出され寄与した。日本が、彫刻、工芸まで多ジャンルの女性美術家50人を集めた「女流美術家奉公隊」(1943.2結成)が、銃後で働く女性達の絵でアピールし、「母よ、子を大空へ」の新聞連載にスケッチや文章、短歌で母性に訴えた。公称1000万人の会員を有した「大日本国防婦人会」では、母として皇国の御用に立つ子供を育て、主婦としていかなる消費生活の窮迫にも耐え抜くことをうたっていた。未婚の女性を働き手として強制的に確保する「女子挺身隊」も政府の要請で組織化された。

米英の戦力、工業力などの正確な情報を把握していない知識人の反応は、戦勝を喜ぶ名もない庶民とさして変わることはなかった。特攻隊に象徴されるように世の中の「お国のために」のムードにのっかって多くの貴重な命を国にささげた悲劇に、国の施策とはいえ、多くの知識人も加担したことは否めない。終戦記念日を迎えるにあたって、今一度戦争は絶対起こさない、起こさせないことを考えてみたい。