エルトゥールル号遭難者救助の世にも美しい話

当ブログで、「日本人の誇り」としてトルコ地震の犠牲者宮崎さんの話を紹介した(http://blog.jolls.jp/jasipa/nsd/date/2012/11/18)。その中で、トルコが親日国家となる大きな契機となった1890年の「エルトゥールル号」の事を記した。和歌山県串本沖での遭難者救助の話だ。その記事に関して、和歌山県出身のJASIPA会員FBI白井さんから和歌山県人が集まる「紀友会」での当事故に関わるスピーチの記事(2010.5.27)に関して紹介があった(http://kiyukai.com/www/siryou/18-genkou.pdf)。講演者のお爺さんが救助の当事者だ。

この記事を見ていただくと、遭難時刻は夜の8時から9時頃、熊野灘を吹きすさぶ台風の猛威の中、そして40メートル近い断崖の下に流れ着く、生存者、死亡者が入り混じる中、生存者を見極めながら、一人一人背負いながら1キロもある道を寺や小学校に運び込んだと言うことです。寒さに震える人に、人肌で温めて介抱に当たった。医師の手当ても受けながら、60戸位しかない小さな樫野村の人たちは、69名のために全村挙げて衣食を提供した。当時の樫野村は半農半漁だったが、米は貴重な食料だったが、蓄えていた米はすべてトルコ人のために供出し、足りなくなった時はサツマイモを掘って提供。非常食用のニワトリも集められたそうだ(ニワトリ料理はお正月とかめったに食べられない料理だった)。遺体捜査で長崎県のダイバーが協力したり、兵庫県からドイツ軍艦の提供(負傷者を神戸に送り治療を受けた)があったり、全国レベルでの支援があった。結局生存者は、約1か月後に神戸から、日本政府が派遣した「金剛」、「比叡」の2艦に分乗しイスタンブールに帰ったとの事。その「比叡」には「坂の上の雲」主人公秋山真之が、海軍兵学校の卒業航海を兼ねて乗艦していたそうだ。

治療に当たった医師に対して、日本政府は治療費の支払いを申し出たが、医師は「そのようなお金があるなら生存したトルコの方々に上げてください」と断ったとのこと。離島の小さな村で食糧や薬なども乏しい、このような困難な状況にありながら、何の名誉も見返りも求めることなく、ただ目前の人々を救おうとした先人たちの勇気と誠意には頭が下がる。これこそ、日本人にしか出来ない美質といえると思う。

今、和歌山県では、トルコと日本の絆の礎となったこの史実を映画にし発信しようと今年、NPO「エルトゥールルが世界を救う会」(浦聖治理事長)が設立されたそうだ。来年秋クランクインだそうだ。このような話は、教育も含めて、もっと広めるべきではなかろうか。

FBI白井さん、情報提供ありがとうございました。「紀友会」の会長がKDDIの安田さんだということを初めて知りました。安田さんも和歌山出身だったんだ。

ツタンカーメン展に行って来ました

12月4日上野の森美術館で開催中のツタンカーメン展に家内と行ってきた。日本では47年前、かの有名なツタンカーメン王の「黄金のマスク」で日本を熱狂させて以来のことだ。日本の美術展史上、最多入場者数約295万人の記録はまだ破られていないとか。今回は大阪合わせて11月25日段階で173万人を達成し、史上2位の記録となったそうだ。なぜここまで、日本を熱狂させるのか?

会場に着く(11時頃)と、いきなり「30分待ち」との表示が目についた(「ホームページで混雑状況のお知らせをしています」との張り紙もあった)。4日は朝の内は雨模様で、平日でもあり、すんなり入れると思っていったら、2百人ほどの待ち行列だ。係員に尋ねたら、これから増えてくると思うので今が一番いいと言われ仕方なく並んだ。中に入って見て驚いた。ツタンカーメンの王墓から見つかった副葬品約50点など、日本未公開の展示品を含むエジプト考古学博物館(カイロ博物館)所蔵の122点が展示されている。黄金のカノポス(ツタンカーメンの内臓が保管されていた器)や、ツタンカーメンのミイラが身にまとっていた黄金の襟飾りや短剣など、ツタンカーメン王墓をはじめ王家の谷などから考古学調査によって発見された、美術的にも考古学的にも大変貴重な品々だそうだ。今回は「黄金のマスク」はなかったが、今から3400年前のものとは思えない鮮やかな色合いや、金箔細工など、日本で言うと縄文時代後期に当たる時期の、エジプト文明のすごさに驚かされた。会場内もすごい人だったが、すべての展示品を見ることが出来、1時間強で会場を出た。

上野の森は、丁度紅葉が見ごろの時であり、天気も良くなってきたこともあって、少し散歩をした。昼飯は寛永寺の鐘楼に隣接する明治8年創業、一時横山大観がオーナーの時もあったという「韻松亭(いんしょうてい)」に行った。丁度昼飯時とぶつかり、ここも待ち行列で20分程度待たされたが、老舗の雰囲気も味わえ、料理も堪能できた。

「韻松亭」の入り口にあったバラの花と、東京文化会館と競技場の間のイチョウ並木の紅葉の写真を掲載しておく。

主人は無理を言うものと知れ(豊臣秀吉)

以前当ブログでも紹介(http://jasipa.jp/blog-entry/7389#t)した元トリンプ・インターナショナル・ジャパンの社長吉越浩一郎氏が、また本を出版された。“必ず「頭角を現す社員」45のルール”(三笠書房)だ。「残業ゼロ」や、「がんばるタイム(毎日2時間は私語やオフィス内立ち歩き禁止)」、「毎日早朝会議(課題をもち寄り、即断即決)」などの施策を社内で徹底され、19年間増収増益を達成された実績が吉越氏の主張に大きな重みを付けている。社長退任後も、講演などで大活躍中だ(ご本人は講演依頼があまり来ないように1講演100万円強の値をつけたが効果なしとも云われていた)。

興味ある話として、例えば「毎日早朝会議」の徹底に関する苦労話があった。「早朝会議」の導入を決めたとする。しかし、定時の9時ではなく8時に出勤してくださいと言っても、社員が素直に従うわけがないと言う。課長以上で実施するにしても不満タラタラ。トリンプで早朝会議を軌道に乗せるのに丸1年かかったそうだ。大抵の場合そこに至る前にやめてしまう。トリンプの早朝会議を見習いたいと1000人以上に方が見学に来られたが、実際に導入された例はほんの数えるほど。やり遂げられなかった数々の会社は、おそらくどこかの段階で一息つき、羽根を休めていたところで抵抗勢力に押し切られたのだろうと言う。仕事も、もちろん会社風土の改革も、とどまることがなく、絶え間なく続くもので、一息つけるものではないと吉越氏は言う。トップの強い意志と信念に基づく継続的な行動が無ければ風土は変わらない。

「プロの誇り」より「プロの自覚」を持てとも言う。プロは結果を出すこと。結果がでなければ何もしなかったのと同じ。「自分はこんなに努力したが結果が出なかった」と努力を誇示する人もいるが、これは言い訳に過ぎない。

「がんばるタイム」など、仕事に集中できる環境つくりに精を出された吉越氏は、「問答無用で朝型人間になれ」と言う。そして「残業は、三流の社員がやること」とバッサリ斬り捨てる。

「いい上司の条件」として、‘部下に好かれようとしない’、‘部下に無理難題を押し付ける’、‘常に挑戦し、成功して結果を出す’を挙げる。上司は無化に無理を言う。部下を育てようとするからだ。部下は其の無理を何とかやり遂げて見せ、その先に成功がついてくるから、努力が報われ、上司を尊敬する。結果として「好かれる上司」になる。織田信長に無理難題を言い渡され、それに見事に応えてきた秀吉が、時を経て無理難題をいう立場になった時「主人は無理を言うものと知れ」といったそうだ。

上司と部下の関係において、規律のある、緊張感ある関係を作り上げ、「部下は上司の命令を完全にやりきる」ことで、自分も成長でき、上司との信頼関係も深まる。そして、このような関係の元、継続的な取り組みによって、組織風土改革も可能となるということだろう。

冲中一郎