「幸せの創造」をビジネスの使命として経営する会社

長野県伊那市に、寒天商材でシェア約80%を誇る企業がある。伊那食品工業だ。従業員400数十名の企業で、年間1万通ものファンレターが届き、新卒の就職希望者は毎年2000名を超えると言う。寒天製造と言う成熟産業にありながら、新技術を開発し、新市場を開拓し続け、48年にわたり増収増益を続けている奇跡に近い会社だ。(「BEソーシャル!社員と顧客に愛される5つのシフト(斉藤徹著、日本経済新聞社)」より)

早速ホームページを調べてみた。堀越会長の挨拶に「”社員1人ひとりのハピネス(幸)の総和こそ、企業価値であると確信する今日この頃です。」とある。企業理念は5ページにわてって、二宮尊徳の考え方なども含めて詳しく書かれている。社是は「いい会社をつくりましょう~たくましく、そしてやさしく」。続いて「いい会社」とはとの説明文がある。

単に経営上の数字が良いというだけでなく、会社をとりまくすべての人々が、日常会話の中で 「 いい会社だね 」 と言ってくださるような会社の事です。「 いい会社 」 は自分たちを含め、すべての人々をハッピーにします。そこに 「 いい会社 」 を作る真の意味があるのです。そして二宮尊徳の言葉を紹介している。

道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である

そして「凡事継続」のタイトルで

  • ■当社の一日は毎朝の庭掃除から始まります。
  • ■その前の通勤時は、道路を右折して会社には入ってこないようにしています。会社の前の道は片側 1車線の道路で、右折で待っていると、後続車が詰まってしまい、渋滞の元になってしまうからです。 そのため、一度通り過ぎてから、大廻して左折で入るよう心がけています。また、たとえばスーパーの駐車場に車を止めるときはなるべく離れたところに止めるようにしています。そうすれば、近い場所には妊婦やお年寄りの方の駐車スペースができるのです。

とあります。

カンブリア宮殿やクローズアップ現代などテレビ番組や、各種新聞、ラジオなどにも頻繁に取り上げられ、見学者もひっきりなしだと言う。

斉藤徹氏は、「ソーシャルメディアの時代」に生き残るのは、社員にも、顧客にも、あらゆる生活者に共感と信頼を持たれる企業のみだろうと言う。昨年フェースブックのユーザ数が10億人を超え、利用者一人あたりの投稿量は年2倍のペースで増加している。そして生活者のオープンな投稿が社会を、企業を透明にする源になり、霧が晴れるように開かれていくと予言する。考えさせられるテーマだ。

営業に魔法の杖はない

標記タイトルの記事が「致知2013.2号」に掲載されている。副題は「伝説のセールスマンへの道」で、日本一のBMWを売った(約2400台)飯尾昭夫氏へのインタビュー記事だ。飯尾氏は「なぜ、私はBMWを3日に1台売ることができたのか」(ダイヤモンド社2012.3)の本も出版されている。

大学を出てすぐ丸紅モータースに入社。同期16人の中でただ一人7か月目でやっと1台売れた屈辱を味わった飯尾氏。その後は新人賞をとり2年目にはトップ営業マンになっていた。10年後にBMWジャパンから誘いを受け転職。年間100台以上を売り上げトップセールスになり、今は営業マンの指導に当たられている。飯尾氏の言葉を紹介する。

結果を出す人、出せない人

売れない営業マンは「車が欲しい」「買い換えたい」など、売上に直結する事にはすっ飛んでいくが、それ以外の要望については優先順位を一番下にしている。一方売れる営業マンは些細なことや、煩わしいことでも、お客様の要望にすぐ応える。即やる。最初は労だけ残って、益はないんですけど、それが積み重なってお客様から評価を頂ける。「あの時、ちゃんとやってくれたから、あいつから買おう」と。お客様から選ばれる営業マンにならなければ物は売れないんです。

「売れない自分」こそ自分の原点

トップセールスを競っている人ほど、入社時にゼロセールスのつらい経験をしている人が多かった。実際、入社してすぐ売れた同期たちは2年目の春過ぎからどんどん辞めていき、結局残ったのは16人中たったの4人でした。苦労を乗り越えた先に喜びがある。この「売れない自分」は私の営業人生の原点です。7カ月のゼロセールスを経験したことで、一人一人のお客様の大切さ、本気で仕事に取り組むことの大切さを学ぶことが出来ました。

売ろうとしたら売れない

お客様がお話しすることをともかく一生懸命聴きました。お客様はみんな凄い人だと思える気持ちがあるので、売ることよりも目の前のお客様に興味があったんです。ですから、お客様と2時間話して買っていただけなくてもそれでいいと思っていました。そこは私にとって一番大事なところで、接客は売ろうとして売れるものではなく、無心になった時に売れるものだと気付いたのです。(中略)まずお客様が時間を作って下さったことに対して感謝の気持ちを伝え、とにかくお客様といろんな話をしながら自由時間を楽しむ。こちらが余裕を持っていると、会話の中でお客様が先に本音を言ってくれるんですね。本音が聴けた時に初めてこちらは動けるわけなので、お客様から「この車はどんな感じですか」と聞かれるまで、自分から商品の説明はしませんでした。

人間として一級品になる

なにがあっても自分の責任なのです。そういう意味では新渡戸稲造の「武士道」などは非常に精神的な支えとなりました。(中略)謙虚な自分をいつも見つめていないといい仕事はできません。人間はちょっといいことがあったり、成功すると傲慢になってしまうんですが、そうではないと自分で自分を戒める気持ちがないと、その先の成功はないと思いますね。営業にはこうやれば絶対に売れるという「魔法の杖」はありません。すべては自分の努力次第です。ある人に「人間は一級品にならないといけない」と言われたことがありますが、売り上げトップだけではなく、人間として一級品にならなければと感じています。

他にも、常に危機感の中に自分を置くことも重要だと言われている。非常に分かりやすく、誰もが納得できる話と思えるが、ノルマを持っていると、ついつい「売ろう、売ろう」と言う気が先走り、それがお客様を遠ざけていることに気付かないことが往々にしてあるのではないだろうか。これまでにも、トップセールスの方の話を紹介してきた(http://blog.jolls.jp/jasipa/nsd/category/%E5%96%B6%E6%A5%AD%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%83%8F%E3%82%A6)が、ぜひとも参考にしながら研鑽してほしい。

世の中に貸勘定の多い人が偉い人!

世界初のターミナルデパート(梅田駅に5階建の阪急ビルディング)が出来たのが、大正9年、そして御堂筋正面に地上8階、地下2階というどでかいビルを建て昭和4年にぎにぎしく開業したのが「阪急百貨店」。鉄道会社が直営で百貨店を経営するなどと言った事例は海外にもなく、その前途に疑問を持つものも少なくなかったそうだ。が、世界恐慌のさなかでも、多くの客を集めたそうだ。これを見て他の私鉄も追随し、東急グループが渋谷に東横百貨店(昭和9年)、大阪電気軌道(後の近鉄)が、上本町駅に大軌百貨店(後の近鉄百貨店)を開業した(昭和11年)。未開発の地域に電車を走らせ、その沿線に分譲宅地や、レジャーランド、宝塚歌劇場などを次々に開発させていった小林一三氏。

「PHP Business Review松下幸之助塾」に連載されている「小林一三~時代の十歩先が見えた男(作家北康利著)」の第9回(2013・1/2号)の記事が面白い。この記事の中で、特に興味を持ったのは、一三の指導を受けた渋沢英一の4男渋沢秀雄が「小林一三翁の回想」で記した「先生は意見も言動も青年のように素直で新鮮だった。そういえば小林先生は、いろいろな事業の面でも、大衆に楽しさ、便利さの貸勘定を残していった人かも知れない」というところだ。北氏はそのエピソードとして、富裕層対象と思いがちな阪急百貨店の食堂での一こまを挙げている。食堂の売れ筋は当時カレーライスだった。そのカレーライスにかけてもらうため、卓上にはウスターソースを置いていたところ、ライスだけを注文し、それにソースをかけて食べる客が出てきた。それが誰云うことなく「ソーライス」と呼ばれるようになった。食堂側は儲けにもならず「ライスだけのご注文はご遠慮くださいませ」との張り紙をした。しかし、一三はこうした客も歓迎するよう命じた。「確かに彼らは今は貧乏だ。しかしやがて結婚して子供を産む。その時、ここで楽しく食事をしたことを思い出し、家族を連れて来てくれるだろう」と諭したという。そして新聞広告にまで「当店はライスだけのお客様を歓迎します」と出し、彼自身が食堂で福神漬の瓶を持ってお客によそってまわったりしたが、ライスだけの客には特に福神漬の盛りを多くしたと言う。

東洋製缶の創始者高崎達之助(後には吉田茂に見込まれて電源開発総裁や、通産大臣なども歴任)がアメリカで缶詰業について学んで帰り、大阪で起業しようとした際にアドバイスをしている。その恩で、阪急沿線の土地を購入することにしたが、「君はバカだね」と一蹴され、「大阪を知るのに郊外に住んでどうする。会社が北なら南に住んで朝夕の通勤で大阪を知る位の頭が無ければ大阪では仕事が出来ない」と。高崎氏は回想録で「それがどんなに私の仕事を益したか、計り知れない」と言っている。

後に東急グループに発展する田園都市開発株式会社の支援を第一生命保険設立者の矢野恒太より依頼され(渋沢英一が設立したが、資金繰りに困り矢野への支援要請があった、その流れで一三に来た)アドバイスをしていた。しかしアドバイスがなかなか実行されないのに堪忍袋の緒が切れ、実行力のある人と言うことで一三が推薦したのが、後年東急帝国の総師として君臨した五島慶太だ。一三の追悼式で五島は「東急の経営は阪急の方針をとり、すべて小林イズムを踏襲してまいりました」と述べて感謝の意を示した。田園調布が今あるのも、東京工業大学が大岡山に有る(蔵前から移した)のも小林一三のお蔭とも言える。

成功が人脈を作るとも言えるが、その人脈で今日を作った小林一三はすごい人だ。その基本は「お客様」、それも将来を見据えた考え方と行動力がなんともすさまじい。過去に学ぶものは無尽蔵にある。

冲中一郎