不世出の大横綱「大鵬」逝く(19日)!

今朝の新聞は、「大鵬」の話でもちきりだ。中でも「巨人、大鵬、卵焼き」の当時のはやり言葉が、どの新聞にも書かれている。36歳で脳梗塞を患い、不屈の精神でリハビリをやられていたとか。それにしても72歳と言うお年でのご逝去は、国技大相撲の立て直し途上でもあり残念なことだ。我々にとって、「大鵬」と言う名前は、ほんとに懐かしさいっぱいだ。大鵬が活躍していた時代を振り返ってみた。

大鵬が関取になって引退するまでの期間が1960-1971年(1971年は私が新日鉄入社した年)、力動山が1951-1963年、長嶋選手がプロに入って引退するまでが、1958-1974年、阪神の村山投手が1959-1972年、王選手が1959-1980年。余計な話かもしれないが阪神の小山投手が1952-1972年だった。ちなみに吉永小百合のデビューが1959年(キューポラのある街が1962年)、倍賞千恵子のレビューが1961年。テレビ放送開始が1953年(私が小学校入学の年)。ほとんどが私の小学校から大学までの学生時代(1953-1971)の思い出の名前ばかりだ。

思い起こせば、私の小学校時代、村では唯一個人医院でテレビ観戦が出来、プロレスや大相撲を見せてもらいに近くの友達を誘いながら行った記憶がよみがえる(当時の大相撲は千代の山、栃錦の時代だった)。小学校高学年時代には家にテレビがあり、母親と一緒に力道山のプロレスをよく見ていた。大鵬、長嶋、王選手の登場は、中学後半から高校大学時代にかけてだ。中学校時代に、甲子園球場に初めて連れて行ってもらった(姉に?)記憶もある。私の母親が、小山投手と従弟だったこともあり、明石の小山投手の実家に何度か遊びに行ったりしていたため、家族・親戚全員強烈な阪神タイガースファンだった。

相撲では、友達連中でも好きな力士は「大鵬」と「柏戸」がほとんどだったがやはり私も含め「大鵬」が圧倒的に多かった。高校時代、「吉永小百合派」と「賠償知恵子派」に分かれ、お互いに主張をぶつける一幕もなつかしく思い出す。

映画「Always八丁目の夕日」の時代である。稲刈りを手伝い、夕焼けの中リヤカーを引いて家に帰る光景が今でも鮮やかに浮かんでくる。戦後復興がめざましく、1960年岸総理の後をついだ池田内閣では「所得倍増」をテーマにし、実行に移したまさに高度経済成長時代である。現在の生活レベルから見れば、ひどい状態ではあるが、東京オリンピックで戦後復興を世界に発信し、まさに日本の将来に向けて希望と夢があった時代だった。力道山や、大鵬、長嶋・王選手などは、そのような時代の象徴的存在だった。

昨年は久しぶりにオリンピックでの大活躍が日本を元気にしてくれた。またIPS細胞の山中教授のノーベル賞受賞も、山中教授のお人柄と合わせて日本中を喜びの渦とした。今年も日本を元気にする施策や、日本人の活躍を是非とも期待したい。

ガマンならない男を副社長にした女性社長

多数の著書も著し、メディアにも引っ張りだこの㈱新規開拓の朝倉千恵子社長。小学校教員を経て35歳(平成9年)で「地獄の特訓」で有名な㈱社員教育研修所に入社。初めての営業経験ながら3年でトップセールスに。平成13年に独立し、平成16年に現会社を起業。

雑誌「PHP Business Review松下政経塾」に「朝倉千恵子の上司学―仕事ができて愛される<人>の育て方」が連載されている。名だたる企業の研修を担当されている朝倉氏の話にはなるほどと思わせてくれるものが多い。その中で、9回目の「ガマンならない男」を読んで、「なんとガマン強い女性社長!」と驚いた。

「地獄の特訓」の会社で採用面接を受けた際の面接官でもあり、採用後の営業担当の上司でもあった我満一成氏(記事に実名で掲載)。毎回感情を逆なでされるようなタイプの上司で、「なんやこのおっさん」と腹が立つことばかりで、いやでいやでたまらなかったそうだ。

しかし、独立した際、営業兼講師として外に狩りにでる自分を支え、会社を守ってくれる女房役として来てもらうことにした(我満氏も事情があって標記会社を辞めていた)。多少、トップセールスにまで育ててもらい、独立も出来たことで感謝の気持ちもあったようだ。しかし、感謝の気持ちも束の間、すぐに衝突が始まり、そのストレスで円形脱毛症になったことも一度ならずあったとか。しかし、時を経るにつれ、長年部門長を経験し、部下育成の面でも「勝てない」「うらやましい」と思うこともしばしばあり、敢えて人に嫌われることをする裏には実は全部狙いがあることがジワジワと分かってきたと言う。「未熟であるが故に自分は我満氏の真意が分からなかった」と自戒する。

今でも、ムカツク事はあると言うが、「私が最もきらいで、疎ましくて、それでいて最も尊敬する最高のパートナー。今はなくてはならない存在だ」と言い切る。そして「支えられて今がある。誰と出会うかによって人生は明らかに変わります。偶然の出逢いが縁になり、最高のきずなに深まった幸運に感謝しています」と語る。

社長と言うのはほんとにつらい責任を負うもの。普通だったら、頭に禿を作る位ストレスをためる相手を、社長の権限で叩き切るだろう(私だったら我慢できない?)。しかし、自分にない好いところを素直に評価し、会社を運営するためには絶対必要な人材との判断で、副社長として二人三脚の体制を作り、成功させた朝倉氏の手腕には感心させられる。感情に左右されない、素直な判断力と決断力が、ガマンを強いたのだろう。多くの部下を抱える社長のつらさでもあり、ガマン強さだ。

愛される会社

日経1月15日朝刊25~27面の2か月に1回掲載されるWAVE.1(ウェイブワン:変貌する私達の生活と現在、その「波」をとらえた記事)に目が止まった。「愛される会社」とのテーマ記事で、そのリード文には「“愛社精神”と言う言葉を聞くことが少なくなった。滅私奉公型のサラリーマンがめっきり減ったせいであろう。ただ時代は変わっても、社員が心を寄せる会社はある。“愛される会社”は、いま、どこに—-」とある。

10社が紹介されている。私が注目したポイントを各社ごとに記す。

まずは、富士山の南側にある建築工事会社「南富士」。建築会社でありながら中国人人材紹介ビジネス(中国北京や広州にカレッジを設置)や、カフェ大福の販売をヒットさせたり、それも若手を抜擢して鍛える環境を整備している。若手は「自分が成長できる機会がふんだんにある環境」だと言う。社員数200人、採用は数人なのに大卒の応募が毎年6千人に上ると言う。

次は楽天。「世界一のインターネットサービス企業になる」「(通販サイトへの出店を促し)地方を元気にする」と言った企業の目的が明確で、社員にも浸透。テレビ会議を使って、グループの全社員が参加する毎週火曜の朝会では、社長から事業の最新状況や、何がうまくいって、何が上手くいっていないかを話し、社員と経営者が志を再確認する場としている。

亀戸にあるくず餅製造販売の船橋屋。業績数値や成果を管理する方法で社員が辞めていく苦い経験から、社員が活き活きと働ける環境つくりに舵を切った。パートの人たちも含めた約180名の満足度調査をベースに1年半で338回、社長との対談を実施した。「ありがとうカード」や「巨匠」「達人」など工場で働く人の資格を定めた「職人マイスター制度」の制定など「働く人が自信と誇りを持てる会社」作りに邁進している。

女性衣料ブランド「アースミュージック&エコロジー」を軸に急成長するクロスカンパニー(岡山市)。全従業員2500名がすべて正社員で、平均年齢24歳の若い会社。人の壁、組織の壁という大企業病を打破する施策として、多くの社員の声を吸い上げる取り組みを促進している。小売業では珍しい「日曜日休暇制度」や「シングルマザー手当」もそんな中で生まれた。受付の女性の提案で会社加入の健康保険の見直しを実施し、数千万年の経費削減につなげた。人を活用するのではなく、人が「躍る」ように活躍する組織つくりを標榜する。

鎌倉の古民家を本社とする鎌倉投信。投資先は「これからの社会に必要とされる、いい会社」。成長企業を選ぶ決め手は「社員」だという。現場に足を運び社員と話す。いい会社は社員が理念を共有し、自由に意見を言い、生き生きと働く。社長の発言や決算が立派でも、投資家が社員に会うのを渋るようでは怪しい。「会社の良さは社員一人ひとりの表情に出る。まず社員を大切にしなければ現場の力が弱まり、時代や顧客のニーズをくみとる力も落ちる。新しい価値も創造できない」と言う。成績は好調で、昨年ブロガーが選ぶ優良投信ランキングで大手を抑え2位に選ばれた。

他にも「縁の下の力持ち」の人たちを救い上げる対話重視のコマツ、ダイニングチェアの生産量トップの飛騨の高山市で、地元の人材と木材の力を引き出し、デザイン性の高い洋家具を製造している飛騨産業、知的障害者がモノづくりの主力となっている、粉の出にくいダストレスチョーク最大手の日本理科学工業、「好きこそものの上手なれ」とアウトドア好きの社員を採用し、自由な発想でアイデア商品を開発するスノーピーク(新潟・三条市)、「人が会社に合わせるのではなく、会社が人に合わせた職場をつくる」と高齢者が従業員18人中14人という紙加工品製造のスバル(愛媛・四国中央市)などが紹介されている。

地域に愛され、社員に愛される会社には、人が集まる。先日紹介した伊奈食品工業もそうだ(http://blog.jolls.jp/jasipa/nsd/date/2013/1/7)。ソーシャルメディアの普及によってこの傾向はますます顕著になるかもしれない。

冲中一郎