市場収縮を跳ね返した富士フィルム、その推進力は社長の強烈な‘使命感’

東日本大震災の際、被災者の思い出の写真の洗浄・再生に尽力し、「無私の経営力」を発揮した企業の一つとして富士フィルムを紹介した(http://jasipa.jp/blog-entry/8333)。その富士フィルムは、創業以来のコアであった写真フィルムが2000年をピークとして以降急激に需要が減り、2010年にはピークの10分の一にまで落ち込んだ。そんな2000年の転換期に社長に就任されたのが古森重隆氏(現会長兼CEO)。雑誌「松下幸之助塾2013年1・2月号」の特集「使命感に生きる」のトップ記事に「百に一つの失敗もしない覚悟~リーダーなら全身全霊を傾けて戦え」とのタイトルの取材記事が掲載されている。

新日鉄も鉄の需要が落ち込んだ際、多角化を推進したが、ことごとく失敗した。が、富士フィルムの多角化は違った。この危機を予測しながら2002年ころから、技術部門のトップと自社技術の棚卸を行い、研究開発中のものも含めて、得意技術を活かした多角化の計画を、構造改革と合せて2004年に中期経営計画として策定した。そして、市場としての成長分野を定め、設備投資や研究開発投資や、新規事業分野においては早期の市場ポジションを獲得の為、M&Aなどへの投資などに経営資源を集中投下した。結果として、医薬品や化粧品、医療機器からなるヘルスケア分野などで、今の富士フィルムの最長を支えることになったと言える。フィルム市場が急激に落ち込む中で2007年には、史上最高の成績を挙げている。

多角化を成功させた要因として、もっとも大きいのがトップの姿勢ではなかろうか。私なんぞ及びもつかない、「魂の経営」だ。古森氏は「経営者として、百の判断をしたら、その百を絶対に間違えないつもりで全身全霊を賭けた」と言う。「トップは‘真剣の勝負’、ナンバー2以下は‘竹刀の勝負’。真剣勝負では負けイコール死であり、自分が負けたら会社は負け・」とトップの戦い方を示唆する。とかく、新商品、新ソリューションを始める際、「百に3つ成功すればいい」のような甘い考え方では100%上手くいかないと言われているのだろう。「この危機を救うのは自分しかいない。それがリーダーとしての使命だ」とも。使命感こそ、セルフ・モチベーション、すなわち自分自身の動機づけを高める引き金だ。部長、課長もそれぞれの使命に燃えて職を全うする企業は強い。使命感を持って仕事をしている人は、失敗からも成功からも、自分の成長のための教訓を数多く学び取ることが出来るとも言う。

古森氏は、「若い時は暴れん坊で、上司と衝突することも少なからずあった。心の広い上司はそんな私でも受け入れてくれた。この上司の為なら一生懸命にやらねばとの使命感から、以前より何が会社にとってのベストかを考えるようになった」と言う。若い時から使命感に燃えて仕事をし、結果として社長として会社を救った。同じ業界のコダックが方向転換できなかったのと対照的だ。企業としてこんな人材(使命感を持って戦える)を如何に育てるか、大きな課題と言える。

不世出の大横綱「大鵬」逝く(19日)!

今朝の新聞は、「大鵬」の話でもちきりだ。中でも「巨人、大鵬、卵焼き」の当時のはやり言葉が、どの新聞にも書かれている。36歳で脳梗塞を患い、不屈の精神でリハビリをやられていたとか。それにしても72歳と言うお年でのご逝去は、国技大相撲の立て直し途上でもあり残念なことだ。我々にとって、「大鵬」と言う名前は、ほんとに懐かしさいっぱいだ。大鵬が活躍していた時代を振り返ってみた。

大鵬が関取になって引退するまでの期間が1960-1971年(1971年は私が新日鉄入社した年)、力動山が1951-1963年、長嶋選手がプロに入って引退するまでが、1958-1974年、阪神の村山投手が1959-1972年、王選手が1959-1980年。余計な話かもしれないが阪神の小山投手が1952-1972年だった。ちなみに吉永小百合のデビューが1959年(キューポラのある街が1962年)、倍賞千恵子のレビューが1961年。テレビ放送開始が1953年(私が小学校入学の年)。ほとんどが私の小学校から大学までの学生時代(1953-1971)の思い出の名前ばかりだ。

思い起こせば、私の小学校時代、村では唯一個人医院でテレビ観戦が出来、プロレスや大相撲を見せてもらいに近くの友達を誘いながら行った記憶がよみがえる(当時の大相撲は千代の山、栃錦の時代だった)。小学校高学年時代には家にテレビがあり、母親と一緒に力道山のプロレスをよく見ていた。大鵬、長嶋、王選手の登場は、中学後半から高校大学時代にかけてだ。中学校時代に、甲子園球場に初めて連れて行ってもらった(姉に?)記憶もある。私の母親が、小山投手と従弟だったこともあり、明石の小山投手の実家に何度か遊びに行ったりしていたため、家族・親戚全員強烈な阪神タイガースファンだった。

相撲では、友達連中でも好きな力士は「大鵬」と「柏戸」がほとんどだったがやはり私も含め「大鵬」が圧倒的に多かった。高校時代、「吉永小百合派」と「賠償知恵子派」に分かれ、お互いに主張をぶつける一幕もなつかしく思い出す。

映画「Always八丁目の夕日」の時代である。稲刈りを手伝い、夕焼けの中リヤカーを引いて家に帰る光景が今でも鮮やかに浮かんでくる。戦後復興がめざましく、1960年岸総理の後をついだ池田内閣では「所得倍増」をテーマにし、実行に移したまさに高度経済成長時代である。現在の生活レベルから見れば、ひどい状態ではあるが、東京オリンピックで戦後復興を世界に発信し、まさに日本の将来に向けて希望と夢があった時代だった。力道山や、大鵬、長嶋・王選手などは、そのような時代の象徴的存在だった。

昨年は久しぶりにオリンピックでの大活躍が日本を元気にしてくれた。またIPS細胞の山中教授のノーベル賞受賞も、山中教授のお人柄と合わせて日本中を喜びの渦とした。今年も日本を元気にする施策や、日本人の活躍を是非とも期待したい。

ガマンならない男を副社長にした女性社長

多数の著書も著し、メディアにも引っ張りだこの㈱新規開拓の朝倉千恵子社長。小学校教員を経て35歳(平成9年)で「地獄の特訓」で有名な㈱社員教育研修所に入社。初めての営業経験ながら3年でトップセールスに。平成13年に独立し、平成16年に現会社を起業。

雑誌「PHP Business Review松下政経塾」に「朝倉千恵子の上司学―仕事ができて愛される<人>の育て方」が連載されている。名だたる企業の研修を担当されている朝倉氏の話にはなるほどと思わせてくれるものが多い。その中で、9回目の「ガマンならない男」を読んで、「なんとガマン強い女性社長!」と驚いた。

「地獄の特訓」の会社で採用面接を受けた際の面接官でもあり、採用後の営業担当の上司でもあった我満一成氏(記事に実名で掲載)。毎回感情を逆なでされるようなタイプの上司で、「なんやこのおっさん」と腹が立つことばかりで、いやでいやでたまらなかったそうだ。

しかし、独立した際、営業兼講師として外に狩りにでる自分を支え、会社を守ってくれる女房役として来てもらうことにした(我満氏も事情があって標記会社を辞めていた)。多少、トップセールスにまで育ててもらい、独立も出来たことで感謝の気持ちもあったようだ。しかし、感謝の気持ちも束の間、すぐに衝突が始まり、そのストレスで円形脱毛症になったことも一度ならずあったとか。しかし、時を経るにつれ、長年部門長を経験し、部下育成の面でも「勝てない」「うらやましい」と思うこともしばしばあり、敢えて人に嫌われることをする裏には実は全部狙いがあることがジワジワと分かってきたと言う。「未熟であるが故に自分は我満氏の真意が分からなかった」と自戒する。

今でも、ムカツク事はあると言うが、「私が最もきらいで、疎ましくて、それでいて最も尊敬する最高のパートナー。今はなくてはならない存在だ」と言い切る。そして「支えられて今がある。誰と出会うかによって人生は明らかに変わります。偶然の出逢いが縁になり、最高のきずなに深まった幸運に感謝しています」と語る。

社長と言うのはほんとにつらい責任を負うもの。普通だったら、頭に禿を作る位ストレスをためる相手を、社長の権限で叩き切るだろう(私だったら我慢できない?)。しかし、自分にない好いところを素直に評価し、会社を運営するためには絶対必要な人材との判断で、副社長として二人三脚の体制を作り、成功させた朝倉氏の手腕には感心させられる。感情に左右されない、素直な判断力と決断力が、ガマンを強いたのだろう。多くの部下を抱える社長のつらさでもあり、ガマン強さだ。

冲中一郎