第10回JASIPA経営者サロン実施(24日)

大盛会だった23日の第41回JASIPA定期交流会兼賀詞交換会(http://jasipa.jp/blog-entry/8413)に引き続き、昨夜第10回経営者サロンを実施した。こちらも過去最大の13名の参加を得た。

第一部は、玉村理事(㈱チャーリー・ソフトウェア代表取締役社長)による「ビッグデータ(新しいビジネスチャンス)」のプレゼンだった。定期交流会でのネットコマース斎藤さんのお話の中にもあったが、「ビッグデータがビジネスの世界を変える」(同名のアスキー新書あり、稲田修一著)可能性に関する情報がとみに多くなっており、日経はじめマスコミでも毎日のように「ビッグデータ」の言葉が出てくる。昨夜のテレビ東京WBSでも取り上げられていたそうだ。非常に時宜を得たテーマで、参加者の皆さんも期待して集まってくれたのだろう。

玉村氏は、常に新しい技術に目を配りつつ、テクノロジーのトレンドから見ると、黎明期の技術への取り組みを時々に応じて決断しながら、会社設立20年強経過した今も、元気に活動されている。ビッグデータに関しても、いち早くその可能性に着目され、多彩な人脈を通じていろんな情報を集めながら、取り組みを開始されている(FBでも数多くの情報を提供されている)。今回は、ビッグデータの可能性を、技術面と応用面で話され、海外のユーザー事例を交えて、分かりやすく解説して頂いた。

第二部は、(玉村さんの話を受けて)新しいソリューションや、新しい商品や技術を事業として取り入れる場合、周囲の人(特に社員)に「やるぞ」と思わせるためには、なぜそれが素晴らしいのか、なぜ採用するのか(Why)を動画的にストーリーとして展開することが、事業を成功に導く鍵ではないかとの議論をした。有名な話だが、アップル社のiPodはもともとクリエイティブ・テクノロジー社が開発したもので、該社の宣伝文句は「5GBのMP3プレーヤー」、アップル社は「1000曲をポケットに」で、アップル社が大成功を収めた(http://jasipa.jp/blog-entry/7415)。まさに、夢を与えてくれる文言だ。玉村さんの話にもあったが、ビッグデータの活用は多岐に渡っており、既に我々周辺の生活にも押し寄せている。夢を語りながらビジネスチャンスを掴み、その夢を具現化するために社員一丸になって取り組む、こんなストーリーが出来れば、大きく成功への道が拓けるのではなかろうか。

次回(第11回)の経営者サロンは、場を変えて、2月22日に関西で開く予定だ。

市場収縮を跳ね返した富士フィルム、その推進力は社長の強烈な‘使命感’

東日本大震災の際、被災者の思い出の写真の洗浄・再生に尽力し、「無私の経営力」を発揮した企業の一つとして富士フィルムを紹介した(http://jasipa.jp/blog-entry/8333)。その富士フィルムは、創業以来のコアであった写真フィルムが2000年をピークとして以降急激に需要が減り、2010年にはピークの10分の一にまで落ち込んだ。そんな2000年の転換期に社長に就任されたのが古森重隆氏(現会長兼CEO)。雑誌「松下幸之助塾2013年1・2月号」の特集「使命感に生きる」のトップ記事に「百に一つの失敗もしない覚悟~リーダーなら全身全霊を傾けて戦え」とのタイトルの取材記事が掲載されている。

新日鉄も鉄の需要が落ち込んだ際、多角化を推進したが、ことごとく失敗した。が、富士フィルムの多角化は違った。この危機を予測しながら2002年ころから、技術部門のトップと自社技術の棚卸を行い、研究開発中のものも含めて、得意技術を活かした多角化の計画を、構造改革と合せて2004年に中期経営計画として策定した。そして、市場としての成長分野を定め、設備投資や研究開発投資や、新規事業分野においては早期の市場ポジションを獲得の為、M&Aなどへの投資などに経営資源を集中投下した。結果として、医薬品や化粧品、医療機器からなるヘルスケア分野などで、今の富士フィルムの最長を支えることになったと言える。フィルム市場が急激に落ち込む中で2007年には、史上最高の成績を挙げている。

多角化を成功させた要因として、もっとも大きいのがトップの姿勢ではなかろうか。私なんぞ及びもつかない、「魂の経営」だ。古森氏は「経営者として、百の判断をしたら、その百を絶対に間違えないつもりで全身全霊を賭けた」と言う。「トップは‘真剣の勝負’、ナンバー2以下は‘竹刀の勝負’。真剣勝負では負けイコール死であり、自分が負けたら会社は負け・」とトップの戦い方を示唆する。とかく、新商品、新ソリューションを始める際、「百に3つ成功すればいい」のような甘い考え方では100%上手くいかないと言われているのだろう。「この危機を救うのは自分しかいない。それがリーダーとしての使命だ」とも。使命感こそ、セルフ・モチベーション、すなわち自分自身の動機づけを高める引き金だ。部長、課長もそれぞれの使命に燃えて職を全うする企業は強い。使命感を持って仕事をしている人は、失敗からも成功からも、自分の成長のための教訓を数多く学び取ることが出来るとも言う。

古森氏は、「若い時は暴れん坊で、上司と衝突することも少なからずあった。心の広い上司はそんな私でも受け入れてくれた。この上司の為なら一生懸命にやらねばとの使命感から、以前より何が会社にとってのベストかを考えるようになった」と言う。若い時から使命感に燃えて仕事をし、結果として社長として会社を救った。同じ業界のコダックが方向転換できなかったのと対照的だ。企業としてこんな人材(使命感を持って戦える)を如何に育てるか、大きな課題と言える。

不世出の大横綱「大鵬」逝く(19日)!

今朝の新聞は、「大鵬」の話でもちきりだ。中でも「巨人、大鵬、卵焼き」の当時のはやり言葉が、どの新聞にも書かれている。36歳で脳梗塞を患い、不屈の精神でリハビリをやられていたとか。それにしても72歳と言うお年でのご逝去は、国技大相撲の立て直し途上でもあり残念なことだ。我々にとって、「大鵬」と言う名前は、ほんとに懐かしさいっぱいだ。大鵬が活躍していた時代を振り返ってみた。

大鵬が関取になって引退するまでの期間が1960-1971年(1971年は私が新日鉄入社した年)、力動山が1951-1963年、長嶋選手がプロに入って引退するまでが、1958-1974年、阪神の村山投手が1959-1972年、王選手が1959-1980年。余計な話かもしれないが阪神の小山投手が1952-1972年だった。ちなみに吉永小百合のデビューが1959年(キューポラのある街が1962年)、倍賞千恵子のレビューが1961年。テレビ放送開始が1953年(私が小学校入学の年)。ほとんどが私の小学校から大学までの学生時代(1953-1971)の思い出の名前ばかりだ。

思い起こせば、私の小学校時代、村では唯一個人医院でテレビ観戦が出来、プロレスや大相撲を見せてもらいに近くの友達を誘いながら行った記憶がよみがえる(当時の大相撲は千代の山、栃錦の時代だった)。小学校高学年時代には家にテレビがあり、母親と一緒に力道山のプロレスをよく見ていた。大鵬、長嶋、王選手の登場は、中学後半から高校大学時代にかけてだ。中学校時代に、甲子園球場に初めて連れて行ってもらった(姉に?)記憶もある。私の母親が、小山投手と従弟だったこともあり、明石の小山投手の実家に何度か遊びに行ったりしていたため、家族・親戚全員強烈な阪神タイガースファンだった。

相撲では、友達連中でも好きな力士は「大鵬」と「柏戸」がほとんどだったがやはり私も含め「大鵬」が圧倒的に多かった。高校時代、「吉永小百合派」と「賠償知恵子派」に分かれ、お互いに主張をぶつける一幕もなつかしく思い出す。

映画「Always八丁目の夕日」の時代である。稲刈りを手伝い、夕焼けの中リヤカーを引いて家に帰る光景が今でも鮮やかに浮かんでくる。戦後復興がめざましく、1960年岸総理の後をついだ池田内閣では「所得倍増」をテーマにし、実行に移したまさに高度経済成長時代である。現在の生活レベルから見れば、ひどい状態ではあるが、東京オリンピックで戦後復興を世界に発信し、まさに日本の将来に向けて希望と夢があった時代だった。力道山や、大鵬、長嶋・王選手などは、そのような時代の象徴的存在だった。

昨年は久しぶりにオリンピックでの大活躍が日本を元気にしてくれた。またIPS細胞の山中教授のノーベル賞受賞も、山中教授のお人柄と合わせて日本中を喜びの渦とした。今年も日本を元気にする施策や、日本人の活躍を是非とも期待したい。