「自己改革2012」カテゴリーアーカイブ

300年かけて建設中のスペインの「ザグラダ・ファミリア教会」

不世出の建築家アントニオ・ガウディが設計したスペイン・バルセロナにある「サグラダ・ファミリア教会」。着工から百三十年の歳月を経たいまなおガウディの遺志をついで未完のまま工事が続く壮大な聖堂の建設に、日本人として参加してきたのが彫刻家・外尾悦郎氏である。昨日届いた「致知2012.12号」の記事だ。インターネットで調べると「横浜駅は神奈川のサグラダ・ファミリア」と言われるらしい。現在の横浜駅ができた1915年から現在に至るまで、駅とその周辺でほとんど途切れることなく、なにかしらの工事が行われていることから呼ばれはじめたとか。今も横浜駅は「安全で安心なまちづくり エキサイトよこはま22(平成22年度に策定した計画)」で20年後に向けて大改造中とか。「ザクラダ・ファミリア教会」は完成までに300年かかるとも言われているそうだ。ガウディがこの聖堂に託した思いとは何だったのか。外尾氏が、ガウディが求めた真の幸福の意味について語る。

外尾氏25歳の時、石の彫刻に魂を奪われ、石の本場欧州を訪れた。その際立ち寄った「ザグラダ・ファミリア教会」の100メートルを超える巨大な建築物が、鉄骨を使わず石だけで構築されている迫力に圧倒され、後先考えずに(1%の可能性にかけて)自分の魂をかける決断をされた。見ず知らずの、しかも異国の人に参画させることはそう簡単ではかったが、採用され、その後34年間、スペインに移住して、石の彫刻に取り組んできた。正門を飾る15体の天使像を2000年に完成させた「生誕の門」は世界遺産に登録されている。

毎日が試験の日々、一つでも気を抜くとすぐ帰れと言われる緊張感との戦いが34年間続いていると言われる。その外尾氏がいつも自分自身に言い聞かせてきた言葉がある。

「いまがその時、その時がいま」というんですが、
本当にやりたいと思っていることがいつか来るだろう、その瞬間に大事な時が来るだろうと思っていても、いま真剣に目の前のことをやらない人には決して訪れない。
憧れているその瞬間こそ、実はいまであり、だからこそ常に真剣に、命懸けで生きなければいけないと思うんです。

「今を大事に活きる」というのは、曹洞宗大本山總持寺参禅講師大童法慧氏の「いま、ここに」の考え方にも通じる(http://jasipa.jp/blog-entry/7593)。さらに

人は答えを得た時に成長するのではなく、疑問を持つことができた時に成長する。
仕事をしていく上では「やろう」という気持ちが何よりも大切で、完璧に条件が揃っていたら逆にやる気が失せる。
たやすくできるんじゃないか、という甘えが出てしまうからです。
本来は生きているということ自体、命懸けだと思うんです。
戦争の真っただ中で明日の命も知れない人が、いま自分は生きていると感じる。(中略)
”要は死んでもこの仕事をやり遂げる覚悟があるかどうかだと思うんです。

当たり前のことを単に当たり前だと言って済ませている人は、まだ子供で未熟です。それを今回の震災が教えてくれました。
本当に大切なものは、失った時にしか気づかない。それを失う前に気づくのが大人だろうと思うんです。

ガウディは「私がこの聖堂を完成できないことは悲しむべきことではない。必ずあとを引き継ぐ者たちが現れ、より壮麗に命を吹き込んでくれる。」と。私財のすべてを投じ、ほとんど無一文になりながら、人類の誰も想像し得なかった壮大な聖堂の構想を描き、それが自分の死後も作り続けられ、人びとの心の中に生き続けることを信じていた。それがガウディが求めた人間の幸福の在り方だと外尾氏は言う。

ガウディの生き様もすごいが、外尾氏も人生を命がけで生きた人だ。外尾氏の言葉が身に沁みる。

プロを目指そう!

今日(10.23)の日経ビジネスオンラインメールに『「プロじゃなかった・・・」リストラで運転手になったミドルの重い一言(http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20121019/238300/?mlp)』(by河合薫)というのがあった。中国へ進出した企業が現地の会社を管理するために、中国語がしゃべれる日本人社員を中国に派遣した。生産管理など仕事を教える仕事だったが、中国人社員は覚えも良く、日本語も含めてすぐ身に付けた。そのため、中国語がしゃべれる意味合いがなくなり日本に呼び戻されたが、席が無くリストラの運命に会い、生活のために運転手になった人の話。河合氏がそのタクシーに乗って聞いた話で、最後に運転手がポロリと「営業も、生産管理もプロじゃなかったので・・・」と言ったのが印象に残ったそうだ。河合氏曰く「グローバル化は、一部の人と企業にしか利益をもたらさない。グローバル化が進めば、中流層の仕事は低コストで雇えるアジアなどの外国人に奪われる。グローバリゼーションの名の下に始まった、労働のダンピング劇。求め続けられる人だけが生き残り、そうでない人は淘汰される。強い者が残り、弱い者が食い尽くされる。」と。

アジアへの進出の悲劇とでも言うのだろうか?日本国内のみの事業も厳しく、アジアに進出すれば、コスト競争で厳しい現実がある。となると、先進国での経験を活かして、プロフェッショナル性を磨くしかない。河合氏は「天才!成功する人々の法則(byマルコム・グッドウェル)」の「1万時間ものトレーニングの積み重ねが天才を生む(Ten Thousand hours is the magic numbers of greatness)」の言葉を紹介し、さらにパフォーマンス向上のための計画的努力を薦め、「1万時間に及ぶ計画的訓練(deliberate practice)」をすれば、誰もが秀でた能力を身に付けることが出来るとしたフロリダ州立大学のダーク・エリクソン教授の説も掲載している。1万時間というと10年近い時間軸となる。

「自分がどうありたい」との何らかの目標を持って、意志力(grit)で継続的に努力することによって、なくてはならない人材になる。グローバル化が必然の将来に向けて、特に若い人たちは、日本人の資質を活かしたプロになる道を今から目指してほしい。

人は皆、あらゆる縁の中で生かされている!

「致知2012.11」の雑誌の中のこんなタイトルの記事に目が止まった。清水マリさんの随想記事だった。清水マリさん?1963年鉄腕アトムが初めてテレビアニメーション番組として放送が始まった年から2003年まで40年間、鉄腕アトムの声を務められた方と言えばお分かりかも知れない。

高校卒業と同時に俳優を目指して養成所に入り舞台俳優としての道を歩み始めた26歳の時、突然虫プロダクションから突然「鉄腕アトムの声をやってほしい」とのオファーがきたそうだ。まだ駆け出しの舞台俳優の所になぜ?と思いつつプロダクションに行って、手塚先生から直々に指導を受けアトム誕生のシーンを吹き込んだ。しかし、これはテレビ局に売り込むためのパイロット版だった。テレビ局が決まったあと、正式にオーディションが開かれ誰がアトムの声をやるか決めることになったが、最終段階で手塚先生の「アトムの声はマリさんで行く」の一声で決まったとか。

マリさんのお父さんは、地元浦和で劇団を作り、ある夏の夜地域の子供たちのために「ピノキオ」を上演することになった。団員は大人ばかりだったので、肝心のピノキオ役がいない。そこで中学1年生のマリさんに白羽の矢が立ち、ピノキオ役を演じた。その時劇団員だった人が虫プロダクションに勤め、手塚先生の側近になっていた。鉄腕アトムはピノキオがモデルと言われているそうだが、「アトムの声」を選ぶとき、その人が手塚先生にマリさんを推薦したとか。

36歳の時、両親を亡くし、しばらく仕事を減らして、その後復帰した時、思い通りの役につけず、心身ともにボロボロになった。その時、NHKのラジオ番組などで共演していた方から「浦和むかしむかしの会」に誘われ、生きる希望をもらったそうだ。お父さんと一緒に仕事をしていた縁で、マリさんをかわいがってくれていた方だとか。

現在76歳のマリサンは言う。「父が一生懸命働き、蒔いた種が巡り巡って私の所で開花しました。人は何かチャンスや成功を手にしたとき、つい自分の力だと思ってしまいます。しかし、人は一人では生きていけません。あらゆる縁の中で生かさせて頂いている。そのことを忘れず。生涯現役の人生を歩んでいきたいと思います」と。

マリさんは、謙虚にお父さんのお蔭と言われているが、ご本人も、与えられた役割を必至で努力しながら果たされたのだと思う。お父さんの縁を活かしながら、自分自身の力で、その縁を呼び寄せたと言う事だろう。

前稿の「チーム山中」「チーム川口」の話にも通じる話題と思い、紹介したhttp://blog.jolls.jp/jasipa/nsd)。