日本の伝統文化を守る‘伊勢神宮の式年遷宮’

伊勢神宮は、天照大御神がご鎮座されて以来二千年以上もの間変わることなくそこにある自然と、絶えることなく続く精神文化が存在する。この神宮の森を歩く時、森の清々しさと、そこにある生命力を誰もが感じます。昔と変わらない場所にいることで、二千年という時を越え、深い日本文化と自分がつながっている気持ちにもなれます(伊勢神宮式年遷宮HPより)。

この伊勢神宮で、西暦690年以来続いている20年に一度社殿を建替え、御装束や御神宝を新調して神さまにお遷り願う我が国最大のお祭り「式年遷宮」が来年2013年に62回目を迎える。神宮にとって永遠性を実現する大いなる営みでもある。

前々回の当ブログ「君が代の起源」(http://jasipa.jp/blog-entry/7820)で紹介した作家長部日出雄氏は、還暦を過ぎてから伊勢神宮を訪れ、それまでの反体制の立場からコペルニクス的転回をした。長部氏曰く「鳥居をくぐって広大な神域を一回りした途端、僕の歴史観、国家観、天皇観はコペルニクス的転回を遂げた」と。「世界中のあらゆる神殿や聖堂は、その圧倒的な規模や装飾の煌びやかさによって、見るものを威圧する。ところが伊勢神宮の建築は非常に簡素で、規模も小さく、基本の造形と素材の美しさのみで構成されている。それに加えて驚いたのは参道の両側に聳える木の幹の太さと途方もない高さだった。樟、樫、椎など、どれもこれまで目にしたことのないほどの大樹で、そんな木々が森の中に点在しているーーー。この簡素な建築と聳え立つ木々との関係性を見れば、我々の先祖が如何に自然を大事にしてきたかが分かる。」(致知2010.8号より)

遷宮のスケールの大きさはその歳月だけではない。93正殿の建て替えだけでなく、「御装束神宝」(おんしょうぞくしんぽう)と呼ばれる神々の調度品や衣装など714種1576点もすべて一新する。全てが古代から続く寸法、技法で作られ、完成品は神宮司庁の職員が細部まで検査して質を確認するという。造営に必要な木材は約1万本、萱は2万3000束。ヒノキは大きなもので長さ10メートルを超えるという。

このための作業は7~8年前に始められているそうだ。式年遷宮が20年ごとに行われる理由については、弥生建築の「清浄さ」を保つ限界とも言われているそうだが、日本の伝統文化を支える技術の継承が第一義ではないだろうか?

国費はかかるが(今回550億円)、日本の誇れる伝統・文化は大事にしたい。伊勢神宮は小学校の卒業旅行で行ったきりだが、ぜひじっくりと訪ねてみたい。

毎日が感動!

昨夜、ずいぶん前にお世話になった方とほんとに久しぶりにお会いした。建機大手のシステム子会社の元社長、専務のお二人だ。私のブログをご愛読いただいているとの事で、ブログに関するお話が弾んだが、政治や趣味の話に加えて、オリンピックにも話が及んだ。

30日の57Kg級女子柔道で見事金メダルをとった松本選手の話題になり、皆さんすごい感動を覚えられたとのことで、是非ブログにもとの要望を受けた。試合直前の彼女の表情と何か自分に言い聞かせる口の動きなど、鬼気迫るものがあった。試合も休むことなく攻め続け(場外に出た選手を引き戻すほど)、他の試合に比して見る人の目をくぎ付けにし、見ている人すべてに感動を与えてくれたものと思う。それにしても、試合前の他を威圧する表情は、自らを試合に没頭させ、追い込むためと考えれば、その精神統一のための鍛錬の凄さを感じる。金メダルを取った後の涙を流す一介の彼女の姿に、ほっとさせられ、見ている人の涙を誘ったのではなかろうか。

その一方で、初めてのメダル獲得となったアーチェリー女子3人組の、常に笑顔を絶やさない姿も感動的だった。今日、スポーツジムのトレーナーが3人組について、笑顔は体の筋肉をほぐし、その効果がメダルにつながったと言っていたが、ほんとかな?

選手の皆さんは、期待を一身に受けて、その重圧はすごいものと思う。その重圧を跳ね返せないと、体が固まったり、変な力みで本来の実力が出せなくなってしまう。体操の内村選手など、誰もが予想だにしない失敗が続いた。なでしこジャパンの昨夜の南アフリカ戦で佐々木監督が「引き分け」指示を出したことに「フェアプレイ精神に反する行為」との批判が出ている。しかし、なでしこジャパンに対する金メダルへの期待の大きさに、「好事魔が差した」のではなかろうか。

オリンピックの活躍が、株価にも影響するとの話も出ている。一時、政治・経済はさておいて、残す10日あまり、オリンピックから思いっきりの感動をもらいたい。

国歌‘君が代’の起源は?

いままさにオリンピック競技がまっさかりで、寝不足の方も多いだろう。期待された柔道・水泳で残念ながら金メダルがとれず、ロンドンの地で国歌‘君が代’がまだ聞けていない(サッカー試合前の国歌演奏はあるが・・・)。この国歌を日本人の皆さんはどのように聞いているだろう。日の丸と同じく軍国主義の象徴にように言われて、教育の場でもあちこちで未だに揉めている実態もあるが、実は‘君が代’は1200年以上も前から庶民に歌い継がれてきたものと言うのは、作家長部日出雄氏だ(致知2010.8号 「君が代に込められた日本人の思い」より)。戦前は「皇国少年」と化していた長部氏は、戦後の教育によって日本の歴史を否定する教育の影響で何事に対しても反権威、反伝統、反体制の立場をとり、高校3年の伊勢神宮への卒業旅行も忌避するほど筋金入りの反体制派だったそうだ。それが還暦を過ぎて、伊勢神宮を訪ねて、その簡素な建築と聳え立つ木々との調和に日本文化の神髄を見て、自らの歴史観、国家観、天皇観のコペルニクス的転回を遂げたそうだ。

‘君が代’の起源は古今和歌集の賀歌(祝賀の際に歌う歌)の部のはじめに「題知らず、よみ人知らず」として掲げられた次の歌であるという。

我君はちよにやちよにさざれいしの巌と成て苔のむすまで

「よみ人知らず」というのは、古今和歌集が編纂されるずっと前から人々の間に歌い継がれてきたわけで、ざっと1200年ぐらい前の歌と考えられると長部氏は言う。これが江戸時代に入って流行り歌「隆達節」の

君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりて苔のむすまで

という歌詞になり、「君」は婚礼では新郎を指すなど、祝賀の宴の主賓に向けられた寿歌(ほぎうた)として広く庶民に謳われてきた。薩摩の琵琶歌「蓬莱曲」の中にも取り入れられている。そして明治2年、イギリスの軍楽隊長の「諸外国には国歌というものがある。日本にも必要」との進言を受けて薩摩藩砲兵隊長の大山巌が、庶民に歌い継がれてきた歌として「君が代」の歌詞を選定したとのこと。

「君」を天皇を指すものとしても、明治天皇の数ある民の平穏を祈る御製に見る無私の祈り、また直近の今上天皇の東日本大震災の時の被災者を勇気づける幾多の行動、お言葉に見る真に国民を思うお心に対し、天皇の限りない長寿を祈願することで、そのまま我々国民の無事と繁栄が果てしなく続くことへの祈りを意味するものとも考えられる。庶民の天皇の御心に対する返礼と考えてもいい。

長部氏も、天皇や国家に対する考え方が変わって以来、「君が代」の奥深い響きに接するたび、身が引き締まるような粛然とした感動を覚えるようになったと言う。日本人の自信と誇りを持って、‘君が代’をオリンピックの場で数多く聴くことが出来るよう、選手の皆さんに頑張ってほしい。

冲中一郎