人は皆、あらゆる縁の中で生かされている!

「致知2012.11」の雑誌の中のこんなタイトルの記事に目が止まった。清水マリさんの随想記事だった。清水マリさん?1963年鉄腕アトムが初めてテレビアニメーション番組として放送が始まった年から2003年まで40年間、鉄腕アトムの声を務められた方と言えばお分かりかも知れない。

高校卒業と同時に俳優を目指して養成所に入り舞台俳優としての道を歩み始めた26歳の時、突然虫プロダクションから突然「鉄腕アトムの声をやってほしい」とのオファーがきたそうだ。まだ駆け出しの舞台俳優の所になぜ?と思いつつプロダクションに行って、手塚先生から直々に指導を受けアトム誕生のシーンを吹き込んだ。しかし、これはテレビ局に売り込むためのパイロット版だった。テレビ局が決まったあと、正式にオーディションが開かれ誰がアトムの声をやるか決めることになったが、最終段階で手塚先生の「アトムの声はマリさんで行く」の一声で決まったとか。

マリさんのお父さんは、地元浦和で劇団を作り、ある夏の夜地域の子供たちのために「ピノキオ」を上演することになった。団員は大人ばかりだったので、肝心のピノキオ役がいない。そこで中学1年生のマリさんに白羽の矢が立ち、ピノキオ役を演じた。その時劇団員だった人が虫プロダクションに勤め、手塚先生の側近になっていた。鉄腕アトムはピノキオがモデルと言われているそうだが、「アトムの声」を選ぶとき、その人が手塚先生にマリさんを推薦したとか。

36歳の時、両親を亡くし、しばらく仕事を減らして、その後復帰した時、思い通りの役につけず、心身ともにボロボロになった。その時、NHKのラジオ番組などで共演していた方から「浦和むかしむかしの会」に誘われ、生きる希望をもらったそうだ。お父さんと一緒に仕事をしていた縁で、マリさんをかわいがってくれていた方だとか。

現在76歳のマリサンは言う。「父が一生懸命働き、蒔いた種が巡り巡って私の所で開花しました。人は何かチャンスや成功を手にしたとき、つい自分の力だと思ってしまいます。しかし、人は一人では生きていけません。あらゆる縁の中で生かさせて頂いている。そのことを忘れず。生涯現役の人生を歩んでいきたいと思います」と。

マリさんは、謙虚にお父さんのお蔭と言われているが、ご本人も、与えられた役割を必至で努力しながら果たされたのだと思う。お父さんの縁を活かしながら、自分自身の力で、その縁を呼び寄せたと言う事だろう。

前稿の「チーム山中」「チーム川口」の話にも通じる話題と思い、紹介したhttp://blog.jolls.jp/jasipa/nsd)。

支えてくれた人がいたから今がある!(山中教授ノーベル賞)

致知2012.11号に「はやぶさ」の川口淳一郎氏と今まさに時の人となられた山中伸哉京大教授との対談記事がある。テーマは「人類の未来の扉をひらく~はやぶさXIPS細胞 世紀の偉業を成し得たもの~」である。今回の山中教授のノーベル賞受賞は、「人類の為」というのが非常に分かりやすく、開発から6年目という異例の速さでの表彰も分かる気がします。国、大学、研究室、家族に対する感謝の気持ちが前面に出ていて、山中教授の「人徳」を感じさせられました。ほんとにおめでとうございます。

山中氏の「(はやぶさが)あれだけの困難を乗り越えてちゃんと還ってきた、というのは、科学の世界でいつも壁にぶち当たっては折れそうになっている僕たちにとっては、もう本当に・・・、あんなに勇気づけられたことはありませんでした。」から対談は始まった。「誰にも譲れない信念」があるからこそ、今回の偉業が達成できたというのは当然だが、山中教授が今回のノーベル賞受賞でも、多くの人への感謝の気持ちを心から言っておられるように、お二人は、研究プロジェクトメンバーの中に「心からやり遂げよう」との気持ちが埋め込まれ、心から支えてくれる人がいなければ何事も達成できないと言われている。お二人の研究は、5年、10年と長期にわっており、メンバーの心意気を持続するのは非常に難しいが、これがないと思い通りの成果は出ない。山中教授は、「スポーツ選手でも、選手本人だけが金メダルを取るのだと言っても、一人では難しい。自分の事はさておいても、“こいつには金メダルを取らすんだ”という支える人たちの思いが不可欠」と言われる。確かに、フィギュアスケートの安藤美姫が、コーチ不在の為今季のグランプリシリーズには参加できないとのニュースが流れた。さらに山中教授は、アメリカで恩師から教わったという「VW」という言葉が成功の秘訣と言う。「V」はVision,「W」はWork Hard。長期的な展望としっかりした目標を持ち、懸命に努力すればその一念は必ず叶うということ。強いビジョンを持ち、「心」を一つにした「チーム山中」「チーム川口」だからこそ、この偉業があった。山中教授の「螺旋型の人生」というのも面白い表現だと思った。いろんな失敗を糧に、時々変化したテーマと共に視野を拡げ、IPS細胞に行きついた人生を言っておられる。同じテーマを継続的に行う「直線型人生」が必ずしも成功するとは限らない。

「チーム〇〇」の考え方は企業も同じだと思う。企業理念、経営方針の目標を社員全員が共有し、その達成に向けて皆で頑張る姿を追い求めるべきと考える。システムプロジェクトもしかりだ。プロジェクトメンバーはもちろん、経営者も「お客様のため」の視点を共有化しながら進めなければならない。しかし、いまだに失敗プロジェクトが後を絶たないIT業界は、「心」が一つになっていない現実を物語っているのではなかろうか。

新日鉄先輩が経産省より情報化促進貢献賞受賞!

経済産業省では、経済社会の情報化の促進に貢献したと認められる個人・企業等(企業、団体、教育機関等)を表彰する「情報化促進貢献個人等表彰」を行っている。毎年、情報化推進月間の始まる10月1日に経済産業大臣から表彰される。

今年、個人部門で3人の方が表彰を受けたが、その中に新日鉄時代からお世話になっている方が選ばれた。細川泰秀氏(一般社団法人日本情報システム・ユーザー協会顧問)だ。他には、浜口友一氏(一般社団法人JISA会長、NTTデータ相談役)、和田成史氏(一般社団法人CSAJ会長、オービックビジネスコンサルタント代表取締役社長)が表彰された。

細川氏の表彰理由は下記となっている。

情報システムのユーザーとベンダー両方を経験した知見を生かし、永年にわたり一般社団法人日本情報システム・ユーザー協会の役員として様々な調査研究事業を発掘・実践し、産業界のIT経営の普及に貢献した。また、調査研究等を通じて我が国情報産業の課題を整理追求し、その知見を産官学の多方面に提供することで我が国の情報化の促進に貢献した。

新日鉄時代もシステムに対して情熱の塊だったが、新日鉄ソリューションズを退職された後JUASの専務理事に就任されてから、IT業界、ユーザー企業を発展させるとの使命感に燃えた八面六臂のご活躍の様子は知る人ぞ知るである。JUASに移られたのが平成13年だから10年近くなるが、その間、ユーザーとシステムベンダーの橋渡し役を果たし、ユーザーのためのシステム開発方法論や、品質標準などの作成、さらに教育研修の充実、本の出版、メディア(日経BP雑誌など)への記事投稿など、JUASの存在価値を大幅に高めると共に日本の情報化促進、IT業界の活性化にも大きく寄与された。今はJUAS顧問となられ、70歳半ばながら、いまなお意気盛んで、「日本のIT業界を立ち直らせ、ユーザーを元気にする」使命感を持って、精力的に活動されている。

細川さんとは、35年前ブラジルのウジミナスへのシステム技術協力でご一緒させていただき(私は入社6~7年目の若造)、薫陶を受けて以来、お世話になっている。とても足元にも及ばない方であるが、このような方が身近にいてくださることは、私の人生にとっては大きなプラスになっている。「頑張らねば」とのエネルギーを常に頂いている。

今日、受賞お祝会が、昔一緒に仕事をされた方々(私にとっては大先輩)が参加されて開かれる。その席に、細川さんのお口添えで私も呼んで頂いた。細川さんから「もっとやることあるだろ!」と発破をかけられることを恐れながら、心では元気を頂きたいと思っている。

冲中一郎