ラーメンの味も人間力次第?

「致知2012.12」に人生紆余曲折を経ながら、今ではラーメンの奥深さに取りつかれ、人の幸せを求めて店を経営するお二人の話が掲載されている。一人は、震災の傷跡いまだ癒されぬ東北・仙台でいまなお支援に奔走しているラーメン店「五福星」代表早坂雅晶氏。もう一人は、福岡で海外も含めて売上70億円を超えるまでに成長させた「一蘭」の吉富学氏。

「五福屋」を創業してから約20年、他の食と比して、進化し続けるラーメンも、ノスタルジックに戻るラーメンも、どちらも繁盛する中で、ラーメンの定義を追い求めていたが、答えがない中で、あることに気付いた。「追求していくべきは、人として、職人としての定義だ」と。「本当の幸せとは、人を喜ばせることによって得られるものでしか成り立たない。自分で買ったものから得られるのは一過性の幸せでしかなく、手に入れた瞬間からまた別のものを手に入れたくなるのが人間の欲。そういう「欲」の対局が「義」だ。」と早坂氏は言う。さらに「売れるものを作りたいのか、それとも自分の生き様を表わしていきたいのかで、商品も変わっていく。自分の子どもに‘お父さんのラーメンだよ’って食べさせたい」と。一番よりも一流を求めて。東北一の繁華街での失敗、製麺機に腕を挟まれ右手を切断などの過酷な運命に遭遇しながらも、入院中の医者などなじみのお客に励まされながら、奥様と一緒に再起。そのうち仙台のテレビ局が東北のラーメン店ランキングを企画して、突然ナンバーワンに選ばれたそうだ。そして3年間は被災者支援を続けるとの目標のもと、今でも七ヶ浜の障碍者施設が運営する授産所の支援をやっている(授産所で作っている豆腐を利用した「とうふ屋らーめん」を今年6月リニューアルオープン)。早坂氏の幸福は、多くの人にラーメンを提供して喜んで貰う事。

派遣事業が軌道に乗っていた時、常連だったラーメン店「一蘭」の閉店に際し、名前を残したい老夫婦からの依頼で、転職した吉富氏。派遣事業には限界を感じていたが、ラーメン事業の将来性(世界にも羽ばたける)を信じて「とんこつ」一本に絞り込み再開した。途中、自分は次の展開ばかり考えていた時、店を任していた専務と共に社員30名が退社という非常事態に自殺も考えた吉富氏。京都のとある串カツ屋で、「福岡から来た」と言ったら、店主が「一蘭のラーメンは美味しいよね」と。一蘭のラーメンを待ってくれている人がいると思い直し、店の立て直しに奔走すると同時に「人間の心」を探し求め本を読み漁ったそうだ。そして辿りついたのが「欲を愛に」、すなわち「店を繁盛させて儲けたい」という「欲」ではなく、「人に何かを与えるという愛」で心を満たそうとの誓いに至った。今は、従業員の幸せを願い、仕事の能力よりも人間性を重視した従業員教育に力を注いでいる。事業を通じて、親の恩、師の恩、そして社会の恩に報いていくのが自分の使命であり、自分なりの愛の表現だと吉富氏は語る。

企業は社会の公器。どの業界でも、お客様から「ありがとう」と言われるサービスを追求することが、結局は企業ひいては従業員の永続的な幸せにつながるものと言えるのではなかろうか。老舗の経営理念を見れば分かる。それにしてもラーメンの味は千差万別だけに、考え方ひとつが盛衰のカギを握るのですね。

300年かけて建設中のスペインの「ザグラダ・ファミリア教会」

不世出の建築家アントニオ・ガウディが設計したスペイン・バルセロナにある「サグラダ・ファミリア教会」。着工から百三十年の歳月を経たいまなおガウディの遺志をついで未完のまま工事が続く壮大な聖堂の建設に、日本人として参加してきたのが彫刻家・外尾悦郎氏である。昨日届いた「致知2012.12号」の記事だ。インターネットで調べると「横浜駅は神奈川のサグラダ・ファミリア」と言われるらしい。現在の横浜駅ができた1915年から現在に至るまで、駅とその周辺でほとんど途切れることなく、なにかしらの工事が行われていることから呼ばれはじめたとか。今も横浜駅は「安全で安心なまちづくり エキサイトよこはま22(平成22年度に策定した計画)」で20年後に向けて大改造中とか。「ザクラダ・ファミリア教会」は完成までに300年かかるとも言われているそうだ。ガウディがこの聖堂に託した思いとは何だったのか。外尾氏が、ガウディが求めた真の幸福の意味について語る。

外尾氏25歳の時、石の彫刻に魂を奪われ、石の本場欧州を訪れた。その際立ち寄った「ザグラダ・ファミリア教会」の100メートルを超える巨大な建築物が、鉄骨を使わず石だけで構築されている迫力に圧倒され、後先考えずに(1%の可能性にかけて)自分の魂をかける決断をされた。見ず知らずの、しかも異国の人に参画させることはそう簡単ではかったが、採用され、その後34年間、スペインに移住して、石の彫刻に取り組んできた。正門を飾る15体の天使像を2000年に完成させた「生誕の門」は世界遺産に登録されている。

毎日が試験の日々、一つでも気を抜くとすぐ帰れと言われる緊張感との戦いが34年間続いていると言われる。その外尾氏がいつも自分自身に言い聞かせてきた言葉がある。

「いまがその時、その時がいま」というんですが、
本当にやりたいと思っていることがいつか来るだろう、その瞬間に大事な時が来るだろうと思っていても、いま真剣に目の前のことをやらない人には決して訪れない。
憧れているその瞬間こそ、実はいまであり、だからこそ常に真剣に、命懸けで生きなければいけないと思うんです。

「今を大事に活きる」というのは、曹洞宗大本山總持寺参禅講師大童法慧氏の「いま、ここに」の考え方にも通じる(http://jasipa.jp/blog-entry/7593)。さらに

人は答えを得た時に成長するのではなく、疑問を持つことができた時に成長する。
仕事をしていく上では「やろう」という気持ちが何よりも大切で、完璧に条件が揃っていたら逆にやる気が失せる。
たやすくできるんじゃないか、という甘えが出てしまうからです。
本来は生きているということ自体、命懸けだと思うんです。
戦争の真っただ中で明日の命も知れない人が、いま自分は生きていると感じる。(中略)
”要は死んでもこの仕事をやり遂げる覚悟があるかどうかだと思うんです。

当たり前のことを単に当たり前だと言って済ませている人は、まだ子供で未熟です。それを今回の震災が教えてくれました。
本当に大切なものは、失った時にしか気づかない。それを失う前に気づくのが大人だろうと思うんです。

ガウディは「私がこの聖堂を完成できないことは悲しむべきことではない。必ずあとを引き継ぐ者たちが現れ、より壮麗に命を吹き込んでくれる。」と。私財のすべてを投じ、ほとんど無一文になりながら、人類の誰も想像し得なかった壮大な聖堂の構想を描き、それが自分の死後も作り続けられ、人びとの心の中に生き続けることを信じていた。それがガウディが求めた人間の幸福の在り方だと外尾氏は言う。

ガウディの生き様もすごいが、外尾氏も人生を命がけで生きた人だ。外尾氏の言葉が身に沁みる。

オムロンの語源?

今月の日経「私の履歴書」にオムロン名誉会長立石義雄氏が登場した。お父さんの一真氏が昭和8年に大阪で創業されてから約80年。以前「京都の企業はなぜ元気?」(http://jasipa.jp/blog-entry/7037)という堀場製作所の堀場厚社長の本を紹介したが、京セラはじめ京都の企業には興味があるため、今回の「私の履歴書」は楽しみだ。立石電機製作所(現オムロン)創業者立石一真氏の経営哲学を紹介する『「できません」と云うな』(湯谷昇羊著、ダイヤモンド社)も紹介した(http://jasipa.jp/blog-entry/7215)。

まだ始まったばかりだが、昨日(3日)の記事で、オムロンの社名の由来が、京都の「御室(おむろ)」だというのを初めて知った。昭和8年大阪(豊島区東野田)で創業したが、第二次世界大戦で京都に疎開し(大阪の工場は爆撃で焼け落ちた)、御室仁和寺(おむろにんなじ)に近い右京区花園に工場を建てたのが、その由来とか。今は、この地は住宅地になっていて、碑だけが残っているらしい。

立石氏が信条としているのは「人の幸せを我が喜びとする」と「顧客から学ぶ」だそうだ。父一真氏が、同じく「私の履歴書」の書き出しで「もっとも良く人を幸せにする人が最もよく幸せになる。これが七十余年に及ぶ人生を振り返って得た結論であり、同時に私の信条信念でもある」と書かれたそうで、この言葉に触発され、冒頭の最初の信条を貫かれているそうだ。後者の「顧客からに学ぶ」は、社長に着任された時に妙心寺の管長に揮毫してもらい、社長室に掲げられているそうだ。他社に学べば後追いになる。社内で学ぶと自己満足に陥る。お客様や市場の声に耳を傾けニーズを掘り起こす、つまり創造するのがベンチャー企業の存在価値との思いが込められている。創業者一真氏の、お客様から言われたことに「出来ませんというな」との思いと一致する。義雄氏も「未来を予測して、事業を通じて人の幸せづくりをして、社会の発展に貢献する事こそが経営者の務めで、それが創業DNAだ」と言う。強い思いを持って次々と新しい技術を開発し、成功したオムロンの強さとなっているのだろう。

これから1ヵ月続く記事が楽しみだ。

冲中一郎