日本語のすばらしさ

昨日(11月30日)の日経朝刊1面のコラム「春秋」に「日本語の書き言葉には緊張感が宿っている」との米国生まれで日本語作家のリービ英雄さんの話が書かれていた。「大陸の文字を変形して島国の感性をあらわす仮名をつくった。文化の越境です」と。春秋子は言う。「そう言われてみれば、ここでもこうしてつづっている仮名文字とはなんと不思議なものか。元々は中国伝来なのに、今ではすっかりオリジナルみたいな顔をして日本語を支えている。その微妙な佇まいを、リービさんは緊張感と表現するのだろう。模倣と創造があやなす日本文化を象徴しているのかも知れない。」

もともと「ひらがな」や「カタカナ(片仮名)」は西暦800~900年ころ、漢字の字体を簡略化したり、崩したりして生まれたものだそうだ。例えば「あ」は「安の簡略化」、「ア」は「阿の左部分を崩したもの」と言う風に。

11月25日に当ブログで紹介した「世界が憧れる日本人という生き方」(http://jasipa.jp/blog-entry/8239)の本の中にも日本語の特殊性が記述されている。「日本語は、ひらがな、カタカナ、漢字、そして外来語から成り立っている。26文字のアルファベットで構成される英語に比べると、数十倍の組み合わせの単語や熟語を覚えるわけ(外国人は英語表現専門のカタカナ文字があることに驚く)で、知らず知らずのうちに‘マルチタスク脳’に育っている」。料理にしても伝統の日本料理だけでなく、フランス料理、イタリア料理、中華料理、はてはハンバーガーやホットドッグまでも‘和製バージョン‘にしてしまう、世界から見ても画期的な’カメレオン文化‘だと言い、それが言語のマルチタスク性で磨かれた日本人が誇れる天賦の才能とマックス桐島氏は言う。春秋子が言う「模倣と創造のあやなす日本文化」と相通ずるものがある。

明治天皇の玄孫(ひしゃご)竹田恒泰氏は「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」(http://jasipa.jp/blog-entry/6826)の本で、「日本語こそ世界遺産にふさわしい」と主張する。原始民族が現代に至っても、言語だけではなく国土と国家を持っているのは、世界でも日本だけである。万物に神霊が宿ると考える神道の源流は縄文時代、その縄文時代の大自然を畏れ、敬い、そして利用してきた日本の和の文化から生まれ出た日本語は、「もったいない」や「いただきます(大自然の恵みへの感謝)」や「ご馳走様」、「津波」など、英語には訳しがたくそのまま英語になっているものが多い。竹田氏は、「日本語は日本人の個性の根幹を担保するものである。近年、蔑ろにされつつある日本語の価値を再発見することは、現代日本人にとっても非常に重要なことである」と主張する。

感動体験に財布開く

今朝の日経2面の「真相深層」のタイトルだ。このご時世でも、テーマパークなどのレジャー消費が堅調だそうだ。東京ディズニーリゾート(TDR)では今年度上期(4月~9月)の入園者数が過去最高を記録した(前年同期比23.4%増)。客単価も増えて、入園料、物販、飲食を合わせた入園者一人当たり支出額は今年度4~9月は上期として最高額を記録。

オリエンタルランドの上西社長は、この現象を「消費者の所得が増えたかというと決してそんなことはない。支出に対する意識は毎違いなくシビアになっている。消費心理が商品中心の考え方から、心に残るコトにお金を使う方向へ変わっているのだと思う。‘喜び’や’感動‘など感情を体験できる空間にはお金を払う、という傾向が強まっている」と語る。

TDRではシニアなど40歳以上の世代が多くなったという。同じ期の入園者に占める比率は19.7%で10年前に比し4%UPしたそうだ。若い時にTDRに来た世代が、親になり祖父母になり、子や孫を連れて訪れている。10月、11月も予想を超える入園者数だそうだ。上西社長は「パークに消費者が価値を感じられる雰囲気を作れば底堅く推移するのではないか」と言いながら、来年の開業30年に向けて、パレードやアトラクションの刷新などさらに客に感動を与える仕掛け作りに余念がない。

同じ日経の1面「春秋」には、何でもお金で買える皮肉を記事にしている。フランスでの話。注文の時「お願いします」と言い添えた客のコーヒー代を20円ほど割り引くカフェが出始めたとか。インターネットの仮想空間に浸りきりで麻痺した他人への心遣いを取り戻す手伝いとの趣旨らしい。日本の常識が世界の常識ではない事例とも言える(?)。テーマパークでは、長蛇の列であっても金を払えばすぐ乗れるサービスがあるそうだが、春秋氏は、無礼傲慢身勝手無精に勇気礼節謙遜努力、まさかまさかのうちに、何にでも値がついてしまうかもしれないと懸念を示す。

TDRの話は、我々ITサービス業にも通ずる話と思う。お客様の心の琴線に触れるサービスを創りだすことこそ、我々の任務であり、企業の責任と考えて行動できるかが、IT業界の将来のカギを握っていると言えるのではないだろうか。

「息子の名前がつくカンボジアの村 ~ナカタアツヒト村~」

 先般(11月18日)、トルコ地震の犠牲者宮崎さんの事をブログに書いた(http://jasipa.jp/blog-entry/8213)。同じような話が「致知2008.9」の記事にあった。まだ記憶にある方も多いと思うが、今から約20年前の1993年カンボジアで起きた事件である。そのお父さんである中田武仁氏(国連ボランティア終身名誉大使)の随想記事である。

カンボジアの選挙監視員に

平成4年になって間もなく、大阪大学を卒業し、外資系のコンサルティング会社に就職が決まった息子の厚仁(あつひと)から、1年間休職し、国連ボランティアとしてカンボジアに行きたい、という決意を打ち明けられた。カンボジアは長い内戦をようやく抜け出し、国連の暫定統治機構のもとで平成5年5月の総選挙実施が決まった。人々に選挙の意義を説き、選挙人登録や投開票の実務を行う選挙監視員。それが厚仁が志願したボランティアの任務の内容だったのである。厚仁の決意は私にとって嬉しいことであった。商社勤めの私の赴任先であるポーランドで、厚仁は小学校時代を過ごした。いろいろな国の子どもたちと交わり、アウシュビッツ収容所を見学したことも契機となって、世界中の人間が平和に暮らすにはどうすればいいのかを考えるようになった。

世界市民を目指す

その意識を持つことの大切さを厚仁はつかみ取っていったようである。1年間のアメリカの大学留学もその確信を深めさせたようだった。国連ボランティアは、厚仁のそれまでの生き方の結晶なのだ、と感じた。だが、現地の政情は安定には程遠い。ポル・ポト派が政府と対立し、選挙に反対していた。息子を危険な土地に送り出す不安。私には厚仁より長く生きてきた世間知がある。そのことを話し、それらを考慮した上の決意かを問うた。厚仁の首肯(うなず)きにためらいはなかった。私は厚仁の情熱に素直に感動した。

ポルポト派に射殺される

カンボジアに赴いた厚仁の担当地区は、政府に反対するポル・ポト派の拠点、コンポントム州だった。自ら手を挙げたのだという。私は厚仁の志の強さを頼もしく感じた。厚仁の任務があと1か月ほどで終わろうとする平成5年4月8日、私は出張先で信じたくない知らせを受けた。厚仁は車で移動中、何者かの銃撃を受け、射殺されたのだ。現地に飛んだ私は、厚仁がどんなに現地の人びとに信頼されていたかを知った。厚仁の真っ直ぐな情熱は、そのまま人びとの胸に届いていた。(中略)

息子の遺志を引き継ぎお父さんも国連ボランティア大使に

私は決意した。長年勤めた商社を辞め、ボランティアに専心することにしたのだ。そんな私を国連はボランティア名誉大使に任じた。(中略)私はボランティアを励まして延べ世界50数か国を飛び回った。それは岩のような現実を素手で削り剥がすに似た日々だった。ボランティア活動をする人々に接していると、そこに厚仁を見ることができた。それが何よりの悦びだった。

ナカタアツヒト村が誕生

厚仁が射殺された場所は人家もない原野なのだが、カンボジアの各地から三々五々その地に人が集まり、人口約1000人の村ができた。その村を人々はアツ村と呼んでいる、と噂に聞いた。アツはカンボジアでの厚仁の呼び名だった。人々は厚仁を忘れずにいてくれるのだ、と思った。ところが、もっと驚いた。その村の行政上の正式名称がナカタアツヒト村ということを知ったのだ。このアツ村が壊滅の危機に瀕したことがある。洪水で村が呑み込まれてしまったのだ。私は「アツヒト村を救おう」と呼びかけ、集まった四百万円を被災した人びとの食糧や衣服の足しにしてくれるように贈った。 ところが、アツヒト村の人々の答えは私の想像を絶した。カンボジアの悲劇は人材がなかったことが原因で、これからは何よりも教育が重要だ、ついてはこの400万円を学校建設に充てたい、というのである。

ナカタアツヒト小学校を建設

こうして学校ができた。名前はナカタアツヒト小学校。いまでは中学校、幼稚園も併設され、近隣9か村から600人余の子どもたちが通学してきている。 やがては時の流れが物事を風化させ、厚仁が忘れられる時もくるだろう。だが、忘れられようとなんだろうと、厚仁の信じたもの、追い求めたものは残り続けるのだ。

お父さんはいまだに、国連ボランティア終身名誉大使として、ボランティア活動を貫かれている。息子との約束「ベストを尽くす」。息子厚仁氏の短い生涯が、人間は崇高で信じるに足り、人生はベストを尽くすに足ることを教えてくれたと言う。

世にも悲しい事件ではあるが、素晴らしい親子関係でもあり、‘for you’の信念に基づく勇気ある日本人の行動に感謝・感動・感激あるのみ。中田厚仁氏にあらためて合掌。

冲中一郎