「息子の名前がつくカンボジアの村 ~ナカタアツヒト村~」


 先般(11月18日)、トルコ地震の犠牲者宮崎さんの事をブログに書いた(http://jasipa.jp/blog-entry/8213)。同じような話が「致知2008.9」の記事にあった。まだ記憶にある方も多いと思うが、今から約20年前の1993年カンボジアで起きた事件である。そのお父さんである中田武仁氏(国連ボランティア終身名誉大使)の随想記事である。

カンボジアの選挙監視員に

平成4年になって間もなく、大阪大学を卒業し、外資系のコンサルティング会社に就職が決まった息子の厚仁(あつひと)から、1年間休職し、国連ボランティアとしてカンボジアに行きたい、という決意を打ち明けられた。カンボジアは長い内戦をようやく抜け出し、国連の暫定統治機構のもとで平成5年5月の総選挙実施が決まった。人々に選挙の意義を説き、選挙人登録や投開票の実務を行う選挙監視員。それが厚仁が志願したボランティアの任務の内容だったのである。厚仁の決意は私にとって嬉しいことであった。商社勤めの私の赴任先であるポーランドで、厚仁は小学校時代を過ごした。いろいろな国の子どもたちと交わり、アウシュビッツ収容所を見学したことも契機となって、世界中の人間が平和に暮らすにはどうすればいいのかを考えるようになった。

世界市民を目指す

その意識を持つことの大切さを厚仁はつかみ取っていったようである。1年間のアメリカの大学留学もその確信を深めさせたようだった。国連ボランティアは、厚仁のそれまでの生き方の結晶なのだ、と感じた。だが、現地の政情は安定には程遠い。ポル・ポト派が政府と対立し、選挙に反対していた。息子を危険な土地に送り出す不安。私には厚仁より長く生きてきた世間知がある。そのことを話し、それらを考慮した上の決意かを問うた。厚仁の首肯(うなず)きにためらいはなかった。私は厚仁の情熱に素直に感動した。

ポルポト派に射殺される

カンボジアに赴いた厚仁の担当地区は、政府に反対するポル・ポト派の拠点、コンポントム州だった。自ら手を挙げたのだという。私は厚仁の志の強さを頼もしく感じた。厚仁の任務があと1か月ほどで終わろうとする平成5年4月8日、私は出張先で信じたくない知らせを受けた。厚仁は車で移動中、何者かの銃撃を受け、射殺されたのだ。現地に飛んだ私は、厚仁がどんなに現地の人びとに信頼されていたかを知った。厚仁の真っ直ぐな情熱は、そのまま人びとの胸に届いていた。(中略)

息子の遺志を引き継ぎお父さんも国連ボランティア大使に

私は決意した。長年勤めた商社を辞め、ボランティアに専心することにしたのだ。そんな私を国連はボランティア名誉大使に任じた。(中略)私はボランティアを励まして延べ世界50数か国を飛び回った。それは岩のような現実を素手で削り剥がすに似た日々だった。ボランティア活動をする人々に接していると、そこに厚仁を見ることができた。それが何よりの悦びだった。

ナカタアツヒト村が誕生

厚仁が射殺された場所は人家もない原野なのだが、カンボジアの各地から三々五々その地に人が集まり、人口約1000人の村ができた。その村を人々はアツ村と呼んでいる、と噂に聞いた。アツはカンボジアでの厚仁の呼び名だった。人々は厚仁を忘れずにいてくれるのだ、と思った。ところが、もっと驚いた。その村の行政上の正式名称がナカタアツヒト村ということを知ったのだ。このアツ村が壊滅の危機に瀕したことがある。洪水で村が呑み込まれてしまったのだ。私は「アツヒト村を救おう」と呼びかけ、集まった四百万円を被災した人びとの食糧や衣服の足しにしてくれるように贈った。 ところが、アツヒト村の人々の答えは私の想像を絶した。カンボジアの悲劇は人材がなかったことが原因で、これからは何よりも教育が重要だ、ついてはこの400万円を学校建設に充てたい、というのである。

ナカタアツヒト小学校を建設

こうして学校ができた。名前はナカタアツヒト小学校。いまでは中学校、幼稚園も併設され、近隣9か村から600人余の子どもたちが通学してきている。 やがては時の流れが物事を風化させ、厚仁が忘れられる時もくるだろう。だが、忘れられようとなんだろうと、厚仁の信じたもの、追い求めたものは残り続けるのだ。

お父さんはいまだに、国連ボランティア終身名誉大使として、ボランティア活動を貫かれている。息子との約束「ベストを尽くす」。息子厚仁氏の短い生涯が、人間は崇高で信じるに足り、人生はベストを尽くすに足ることを教えてくれたと言う。

世にも悲しい事件ではあるが、素晴らしい親子関係でもあり、‘for you’の信念に基づく勇気ある日本人の行動に感謝・感動・感激あるのみ。中田厚仁氏にあらためて合掌。

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