西郷南洲の教えに学ぶ

同じ鹿児島生まれの稲盛和夫氏は、子供のころから西郷隆盛を敬愛し続けてきた。そんな稲盛氏が、世情の乱れてきた今こそ西郷の精神の復活が必要だとして、「南洲翁遺訓」全41条の解説書を出している。「人生の王道―西郷南洲の教えに学ぶ(日経BP社、2007.9)」という本だ。稲盛氏は、この遺訓は、時代を超え、我々に人間としてのあるべき姿を、今も鮮やかに指示してくれると言う。

「無私」:

「廟堂に立ちて大成を為すは天道を行うものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也」

(政府にあって国の政をするということは、天地自然の道を行うことであるから、たとえわずかであっても私心を差し挟んではならない)。今の政治屋にも肝に銘じてほしいと思うが、どんな組織であれ、トップに立つものの心構えとするべし。稲盛氏の「動機善なりや、私心なかりしか」を自ら問う姿勢は、この遺訓からの教訓だろうか。

「試練」:

「古より君臣共に己れを足れりとする世に、治功の上りたるはあらず、自分を足れりとせざるより、下々の言も聴き入るるもの也」

(昔から主君と臣下が共に自分は完全だと思って政治を行うような世にうまく治まった時代はない。自分は完全な人間ではないと考えるからこそ、下々の言うことも聞き入れるものである)。上に立って人をリードしていく者が自信を持ちすぎ、傲慢になることを戒めている。自信と謙虚さ、温情と非情、利己と利他など相矛盾する両極端の考え方を持ちながら、それを局面に応じて矛盾なく正しく発揮できる人が最高の知性を有する人である。

「利他」:

「道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ」

(道というものは、この天地の自ずからなる道理であるから、学問を究めるには敬天愛人{道理を慎み守るのが敬天、仁の心をもって衆を愛することが愛人}を目的とし、自分の修養には己れに克つことをいつも心がけねばならない)。人間というのは、心の中に常に煩悩が沸き起こり、腹が減ると「食欲」、外敵に立ち向かう際には「怒り」、無知蒙昧である故「愚痴」が出る。仏教ではこの3つを「三毒」と言う。この3毒を自分の意志の力で押さえつけることが克己。この克己が出来るように修養し、人々を分け隔てなく愛することが学問の目的という。人間とは弱く、偉くなって成功すれば、謙虚さを失う。

「大義」という面では、リーダーは集団の目指すべきところを明確にすべしと説く。

「信念」ということでは、どんな制度や方法を議論しても要は人の問題に帰結する、才覚と熱意を持って、才に溺れない人格を有し、哲学を学び実践しながら「人格形成」を図らねばならない。

「立志」では、人が自分自身を高めていこうという「志」を捨て、努力する前に諦めてしまう心の弱さを西郷は最も厳しく戒めている。

この遺訓は、江戸の薩摩藩邸の焼き討ちまでやり敵対していた旧庄内藩の手でまとめられた。稲盛氏は「かって、とびきり美しく温かい心を持った、一人の上質な日本人がいた。それが西郷隆盛」とまで言う。「西郷隆盛」をもっと知りたいと思う。

「恕の精神」は日本人の誇り

前ブログ(http://jasipa.jp/blog-entry/7458)で、「恕(思いやりの心)」について触れた。たまたま時を同じくして、「恕」についての記事が目に留まった。

一つは、「孔子の人間学(致知出版社)」の本の中で、キヤノン電子社長酒巻久氏の「ドラッカーと孔子に学んだこと」で「恕」が紹介されている。

「論語」にある言葉、子貢問うて曰く「一言にして以て終身之を行うべき者有るか」、子曰く、「其れ恕か。己の欲せざる所人に施す勿(なか)れ」。(「ただ一言で終身行うことができるものがありますか?」、孔子が言うには「それは恕という一言であろう。恕は己の心を推して人を思いやるのである。己の心に欲しないことは人も欲しないから、これを人に施し及ぼさないようにせよ」)

酒巻氏は「開発の基本はまさに恕」という。ヘンリー・フォードも、「成功の秘訣は、相手の立場に立って物事を考えることだ」と言った。お客様が喜び、感動するものを作ることは恕の実践そのものと言える。さらに「恕は仕事の上で、そして人間として最も大切な心がけだと実感している。(中略)自分があるのは、それまで多くの人から受けてきた無数の思いやりの心のおかげであり、今度は自分から次の世代に恕の心を施すことで受けた思いやりにお返ししていかなければならないと心に刻んでいる」と。ドラッカーも「論語」から影響を受けたと思われる記述が随所に見られる。ドラッカーの言葉「経営の基本は、そこで働く人たちを不幸にしないことだ」はまさに「論語」を含めた儒教の土台となる精神と言える。

二つ目は、「致知」の月例読者の集いで講演された作家童門冬二氏の講演録より。東日本大震災である光景がテレビで映し出されていた。被災地の体育館で一人の中学生が雑用で駆けずり回っていた。その中学生が「なぜ、そんなに明るいの?」と聞かれて、「3月11日までは悪がきだったが、あの日以降、自分の親も含めてみんなが他人を喜ばせるためにすぐ身近なことを一生懸命やっている姿を見た。それなら僕にもできることがあるんじゃないか。雑用だけど僕が走り回るたびに喜んでくれる人がいる。こんなうれしい生き方は初めてだった」と。童門氏は、この中学生の根底にあるものが「恕」の精神であり、白河藩の松平定信の改革を事例に、いまも確実に日本人の心に引き継がれていると言う。孟子は、孔子の言う「恕」は分かりづらいと言うことで「忍びざるの心(他人の悲しみや苦しみを見るに忍びない)」と言い換えたそうだ。

酒巻氏の言われるように、私もこれからは恩返しの日々と心得、日々精進していきたいと考えている。そして「恕の精神」を日本人の誇りとして引き継いでいくことにも努力したい。

何のために働くのか(北尾吉孝著)

昨年11月に当ブログ(http://jasipa.jp/blog-entry/6966 孔子に人間学を学ぶ) で紹介したSBIホールディングス代表取締役北尾吉孝氏が、興味ある本を出版されている。「何のために働くのか(致知出版社)」で、昨年はハードカバーだったが、この3月にポケット版が出版された。

儒学者を祖先に持つ北尾氏は若い時から中国古典に親しみ、深い造詣をお持ちであることは有名である。四書(論語・大学・中庸・孟子)五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)の教えを前著「君子を目指せ、小人になるな」に続いて、今回の「何のために働くのか」でも随所で展開されている。

稲盛和夫氏の「働くことが人間性を深め、人格を高くする。働くことは人間を磨くこと、魂を磨くことだ」の言葉を最初に紹介し、物質的な豊かさと精神的な豊かさの共存の必要性を説いています。「精神的な豊かさ」すなわち人間力の弱体化が、日本そのものの弱体化につながっているとの危機感を持ち、中国古典や、稲盛さん、松下幸之助、安岡正篤、中村天風、森信三各氏の名言に習うべしと言う。

「仕事の成果は、人間的な成長と“ご縁”」、ご縁を広げ、いろんな人から話を聞くことによって刺激を受けるとともに、自己を知る。自己を知ることが人間を磨く根本問題と、先哲は言う。ソクラテスも「汝、自らを知れ」、ゲーテも「人生は自分探しの旅だ」、安岡正篤氏は「自得」という言葉を使い「人間いちばん失いやすいものは自己。根本的本質的に言えば人間はまず自己を得なければならない」と。「老子」には「人を知る者は智、自ら知る者は明(人を知る者は智者に過ぎない、自分を知ることが最上の明だ)」とある。

「働く」というのは「傍を楽にする」こと、つまり社会のために働くことであり、公けに仕えること。人生の根本義は「仁道」にあり、「仁」は人が二人と書く。すなわち心相通ずる関係を言う。相通ずる心というのはある種の一体感です。この心が起こってくると「恕」が働き始める。「恕」というのは、我が心の如く相手を思う、すなわち思いやりのこと。(前ブログhttp://jasipa.jp/blog-entry/7453

精神的な豊かさを得るために、もっと古典を勉強してみたいと思う。