「日本人の誇り2」カテゴリーアーカイブ

要介護者対象の旅行業を運営する若者!

学生時代にキャンパスベンチャーグランプリ(CVG)全国大会経済産業大臣賞(’07年)を受賞し、ビジネスを始めた同志社大学学生だった佐野恵一氏(現たびらく社長で28歳)。

そもそものきっかけは、大学1年生の年末に要介護者の祖母を連れて家族旅行をした時、旅館などで、入浴の介助を頼んでも「出来ません」と言われ、お母さんが疲れを癒すどころかへとへとになってしまった事と言う。温泉旅館が概して入浴補助に消極的なら、需要はありそうだとの単純な発想での企業だったと言う。旅館で出来ないなら我々がやってやろうと気軽な気持ちでビジネスを始めた。右も左も分からない状態で、右往左往しながらもなんとか前に進めることが出来たそうだ。例えば、最初はボランティアで始めたが、責任の所在が不明確になったり、同行者の旅費コストもあり、ご本人がボランティアに気兼ねして我慢するようなことが分かり有償にしたそうだ。しかし有償と言っても、明朗会計を心がけ、お客様とは別の格安ホテルに宿泊したりして、コストの抑制に努めている。お客様の負担を減らすために出発地からの同行ではなく、現地まで来ていただき観光する形の着地型旅行にも力を入れているとか。

株式会社になってから4年、リピーターが83%との事だが、この事業をやってみて、ご本人が旅行を楽しむことを目的として始めたが、旅行を通して元気になられる事例が多く見られるそうだ。内にこもっていた行動様式が、旅をすることで今まであきらめていたことができるようになったり、実際、ほとんど歩けなかった人が歩けるようになったり、食事が十分とれなかった人が会席料理をペロッと平らげたり、3年くらい声が出なかった人が、帰り際に「ありがとう」と言ったりする。「旅は最高のリハビリ」であり、まさに「心が動くと体が動く」ということを実感すると佐野氏は言う。初めは、これが最後の旅行と思って申し込む人が、一度旅行を経験すると自信がついて「また行きたい」と言う思いが膨らむ。リピーターのほとんどがこのような方だと言う。そのためには、同行するスタッフには、第三者から見たら「立派な息子・娘」「礼儀正しい孫」といった感じでふるまえるようにとの躾を徹底しているそうだ。

佐野氏の理想は、「体の不自由な人が旅行に行きたいときに行けるような社会」で、「今の事業が不要になる社会」と言う。しかし、その道は険しく、東日本大震災で「助け合いの精神」が海外からも評価されたが、実際は温泉旅館や、街行く人などの心配り、理解、そしてバリアフリー化もまだまだ足りないと嘆く。佐野氏は、理想を求めて、ホテル、旅館、飲食店などに対して「バリアフリー社会」の啓もう活動もやっている。京都で、行政に先駆けて「バリアフリー観光案内所」を6年前から設けているが、最近行政の理解も進み、京都を車椅子の外国人でも安心して旅が出来るよう力を入れ始めていると言う。

こんな使命感に燃えた若者もいる。高齢化社会を迎えるにあたって、高齢者の旅を活性化することは「成長戦略」にもなるし、元気な高齢者を同行スタッフにして、生産力UPにもつなげる、これからの世界をよりよくする大きなヒントを与えてくれているのではなかろうか。頑張れ!佐野くん。

台湾で最も愛される日本人八田與一

日清戦争で勝利し、第二世界大戦で敗北するまでの50年間(1895~1945)台湾は日本が統治していた。欧米が戦争で勝った国を植民地とするのは、人や資源を搾取し、奴隷化することが目的だったが、日本は統治国を日本の一部として、国のインフラ整備や教育などに力を入れる施策を取ってきた。当時の台湾総督府では、都市計画の策定・実行や、学校の建設、鉄道建設、水利施設の整備など、台湾を日本以上の国にするための施策を打った。

その中でも、24歳の時(1910年)に台湾総督府に技手として勤務した金沢出身の八田與一氏は、56歳に亡くなるまで、ほとんど全生涯を台湾のために尽くし、今でも「台湾でも最も愛される日本人」として台湾の人の心に生き続けている。

台湾南西部の嘉南平野にある当時アジア一と言われた烏山頭ダムの建設と1万6000キロにおよぶ灌漑用水路の建設に携わり、それまでサトウキビさえ育たなかったと不毛の地域を、台湾最大の穀倉地帯にした。人間味ある現場責任者として、農民に親しまれたそうだ。10年にわたる大工事の最中、不幸にもトンネル工事で50数名が殉職した際、遺族全戸を回り、工事の継続をお願いしたというエピソードもある。場所は植民地である。

1600㍍以上の堰堤といい巨大な烏山頭ダムが完成し、轟音をたてて躍り出た豊かな水が、嘉南平野に張り巡らされた水路に流れ込み、みるみる一帯を潤した姿を見た農民は「神の恵みだ。天の与え賜うた水だ」と歓喜の声をあげたそうだ。八田氏はその後、台北に移り、太平洋戦争でフィリピンに従軍する船が撃沈され亡くなられた。戦争に負けて、台湾にいた日本人は全員日本への帰還を命ぜられたが、八田氏の奥様は、烏山頭ダムの放水口に身を投げ八田氏の後を追われた。

烏山頭には夫妻の銅像が立ち、命日には毎年追悼式が行われている。中学校の歴史教科書にも掲載され、学校教育の場でも語られている。昨年には「八田與一記念公園」が開園し、今年には記念切手が発売になり、1000年近くたっても今の台湾の人たちに語り継がれている。昨年の東日本大震災時、台湾国民の募金として200億円が日本に贈られた。この額が、世界一だったと言うことで台湾の多く人たちが喜んだとの報道もあったが、まさに八田與一氏への恩返しと言う意味があったのかも知れない。

エルトゥールル号遭難者救助の世にも美しい話

当ブログで、「日本人の誇り」としてトルコ地震の犠牲者宮崎さんの話を紹介した(http://blog.jolls.jp/jasipa/nsd/date/2012/11/18)。その中で、トルコが親日国家となる大きな契機となった1890年の「エルトゥールル号」の事を記した。和歌山県串本沖での遭難者救助の話だ。その記事に関して、和歌山県出身のJASIPA会員FBI白井さんから和歌山県人が集まる「紀友会」での当事故に関わるスピーチの記事(2010.5.27)に関して紹介があった(http://kiyukai.com/www/siryou/18-genkou.pdf)。講演者のお爺さんが救助の当事者だ。

この記事を見ていただくと、遭難時刻は夜の8時から9時頃、熊野灘を吹きすさぶ台風の猛威の中、そして40メートル近い断崖の下に流れ着く、生存者、死亡者が入り混じる中、生存者を見極めながら、一人一人背負いながら1キロもある道を寺や小学校に運び込んだと言うことです。寒さに震える人に、人肌で温めて介抱に当たった。医師の手当ても受けながら、60戸位しかない小さな樫野村の人たちは、69名のために全村挙げて衣食を提供した。当時の樫野村は半農半漁だったが、米は貴重な食料だったが、蓄えていた米はすべてトルコ人のために供出し、足りなくなった時はサツマイモを掘って提供。非常食用のニワトリも集められたそうだ(ニワトリ料理はお正月とかめったに食べられない料理だった)。遺体捜査で長崎県のダイバーが協力したり、兵庫県からドイツ軍艦の提供(負傷者を神戸に送り治療を受けた)があったり、全国レベルでの支援があった。結局生存者は、約1か月後に神戸から、日本政府が派遣した「金剛」、「比叡」の2艦に分乗しイスタンブールに帰ったとの事。その「比叡」には「坂の上の雲」主人公秋山真之が、海軍兵学校の卒業航海を兼ねて乗艦していたそうだ。

治療に当たった医師に対して、日本政府は治療費の支払いを申し出たが、医師は「そのようなお金があるなら生存したトルコの方々に上げてください」と断ったとのこと。離島の小さな村で食糧や薬なども乏しい、このような困難な状況にありながら、何の名誉も見返りも求めることなく、ただ目前の人々を救おうとした先人たちの勇気と誠意には頭が下がる。これこそ、日本人にしか出来ない美質といえると思う。

今、和歌山県では、トルコと日本の絆の礎となったこの史実を映画にし発信しようと今年、NPO「エルトゥールルが世界を救う会」(浦聖治理事長)が設立されたそうだ。来年秋クランクインだそうだ。このような話は、教育も含めて、もっと広めるべきではなかろうか。

FBI白井さん、情報提供ありがとうございました。「紀友会」の会長がKDDIの安田さんだということを初めて知りました。安田さんも和歌山出身だったんだ。