韓国「サムスン電子」躍進のなぞ


先週土曜日夜の古館一郎の「報道ステーション」で財部誠一氏が、韓国LG,サムスンなどに圧倒されているパナソニックのインドでの巻き返しを特集していた。インドでの売上がLG2400憶円、サムスン1800億円に対してパナソニックは400億円。これを今年1000億円、来年2000億円にする目標を立て大坪社長が先頭にたって、策を講じており、かなり目標達成の確度は高いとの事であった。

パナソニックインドのインド人従業員が、各家庭に入り込み、生活様式から細部にわたって調査し、リモコン不要(つけっぱなし)、風流の変化不要(天井に大きな扇風機あり)で、2万円台のリモコンを作りヒットさせているそうだ。液晶テレビも売れ出したとか。これも既にサムスンが地域専門家制度を作り、家庭に入り込んでマーケット調査をし製品開発に生かしたやり方と同じだ。

日本のモノマネを脱し、自らの路線を歩むことを決断し、実行に拍車をかけた1997年韓国通貨危機に時代を挟んでサムスンの役員を経験された吉川東大特任研究員の著作「危機の経営」から、サムスンの成功物語の一部を紹介する。

 1993年当時のサムスン電子は、当時のイゴンヒ会長が会社の将来を危惧してフランクフルト宣言を発した年です。その頃は、すべての製品が日本のモノマネで、品質が著しく劣っており、価格を安くしないと売れない状態で、このままいくとつぶれるしかないとの危機意識から、有名な「家内と子供以外はすべて取り替える」との宣言を出されたのです。

まさに日本の後塵を追っかけているのではなく、競争できる力を備えなければ将来はないとの危機意識です。「安かろう、悪かろう」の三流企業からの脱皮です。しかし、優秀故に兵役免除となっている者も多数いる集団でも、会長の言う危機宣言を肌で感ずことが出来ず遅々として改革派進まなかったそうです。優秀ゆえに驕りがあり、「変わらなければサムスンがなくなるなんて何をオーバーなことを」くらいにしか受けとめていなかったとの事。

それが一変したのが1997年のアジア通貨危機です。外貨準備高が低い韓国で、ウォン安が進み、国の経済が停滞し、国が破綻寸前まで行ったのです。IMF支援で何とかなったのですが、サムスンも大幅なリストラに加え2~3割の給与カットをせざるを得なくなりました。これで会長の言っている改革に火が付きました。もともと優秀な集団ですから分かれば早いのです。3PI活動(パーソナル、プロセス、プロダクトイノベーション)の推進が一気に進みました。その中でも特記せねば成らないのは地域専門制度です。これまで日本追随の時は日本語研修が主体だったのですが、マーケットを後進国に照準をあて、立派な教育施設を作り、3ヶ月間のカンズメ教育の中で、それぞれの言語に加えて文化も学び、その後、それぞれの国へ半年から1年行って実地研修でさらに現地の人と生活しながら文化、生活習慣、人の好みなどを覚えるのです。日本など先進国は、「いいものを作れば売れる」との発想ですが、サムスンは「それぞれの国の好みに合った製品作り」に徹したのです。従って日本の製品を凌ぐ品質ではなく、部品もデザインもほどほどにそれぞれの国の事情にあわせた価格設定で売り込みをかけたのです。これで世界を制覇したのです。

このような状況下、1994年からの激動の10年間経営に携わられた吉川さん(現東大特任研究員:日立→日本鋼管→サムスン)の講演ならびに書籍から得た情報です。吉川さん曰く「卵の殻を自ら破ると命ある鳥が生まれるが、他人に割られると目玉焼きにしかならない」。「危機の経営 吉川良三、畑村洋太郎 講談社」より

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