“専門家”を待つ落とし穴

昨日の日経夕刊1面のコラム「あすへの話題」に、生物物理学者の和田昭充東大名誉教授の記事がある。専門家が専門家を評しているところが面白く、納得してしまう。

曰く「専門家には、自信の強さに比例する深さの落とし穴が待っている」と。思いつく事例は、今日の政治、経済、科学技術に山ほど見られるとし、差し障りのない範囲で事例を紹介している。1910年飛行機を見て、聡明で知られたフランスの連合国軍総司令官は「飛んで遊ぶのは体にいいかもしらんが、軍事的価値はゼロだ」と一笑に付したとか。英国の陸相も最初の戦車を見て「手際のいい玩具」と評したそうだ。バーナードショー曰く「由来、専門家というものは自己の職務を知らないものだ」。ロイド・ジョージ英国首相は「英国は次の戦争のために準備せず、ただ過去の戦争のために準備した。ボーア戦争(1900年ころ)のとき我々はクリミア戦争(1853)のつもりでこれを迎えた。その後もわが軍事専門家たちは、過去の戦争をそのまま参考にして次の戦争計画にふけっていた」と。岩田氏は「まさに日本も日露戦争時代の、銃剣突撃の精神主義と日本海海戦の大艦巨砲主義で太平洋戦争に突入してしまった」と言う。最後に、『いつの時代でも「本物の専門家」に求められるのは「謙虚さ」、そして「自分の能力の限界」に対する不断の反省だ』と。

評論家日下公人氏も「思考力の磨き方(PHP研究所、2012.4)」の中で、学者、政治家も過去のデータに基づく思考形態「直線思考」の考え方に固まっており、新しい発想が出ないと言う。「思い込み」を捨て、事に当たって「自分の知識は十分か」「先入観にとらわれていないか」と自問しつつ、仮説を立て、自由に発想を広げる「拡散思考」が出来るよう頭を鍛えることが必要と説く。

原発はじめ、最近のいろんな社会問題を眺めてみると、専門家の主張を丸呑みする危険性を感じざるを得ない。我々も、情報が氾濫する世の中で、虚心坦懐に情報を読み解く訓練をしなければならないと痛感する。

会社人生は「評判」で決まる

上記題名の本が出版された(相原孝夫著、日経プレミアシリーズ、2012.2)。会社では業績などによる評価(査定)基準に則って処遇や人事を決めるが、主観的である「評判」も大いに加味されている、あるいは加味されるべしというのが、多くの企業の人材育成・評価に関する支援をやってこられた筆者の主張である。評価は短期間で作れるが、評判は長期間にわたって築かれるもので、一旦評判を落とすと再び高めるには、相応の時間を要するもの。お客様から得る評判(信頼)と同じ性質を持つ。「評価」には反論しがちだが、評判には反論できない(反論する対象が決まらない)。

「西郷南洲遺訓」に「功あるものに禄を与え、徳ある者に地位を与えよ」とある。企業の中では一般的に功あるものに地位を与えているが、それで上手くいっていないケースを多く見ると言う。それでは、評判はどうやって得ることが出来るか?相原氏が言うのは次の3点。

  • 1.自分を分かっていて、かつ他者への十分な配慮の出来る人。1人ひとりへ十分な関心を持つ。(反対語:ナルシスト)
  • 2.労をいとわない実行力の人(反対語:口ばっかりの評論家)
  • 3.自分の役割・立場を正しく理解し、それに基づいた本質的な役割を果たせる人。(反対語:自分の立場を理解していない分不相応な人)

周囲の目ばかりを気にしていても評判は高まらない。必要な自己主張や実行力がなければ評判は高まらない。プロセスを大切にし、日頃から細かいことにもおろそかにしない姿勢が必要。筆者は、様々な調査結果から、職場において、コミュニケーションや助け合いが減少していることを指摘している。好業績者1人より、ムードメーカー一人の方が存在感がある(WBCで西岡より川崎を選んだ理由―控えにまわってもモチベーションが保てる)。今の仕事、職場で「仕事もでき、評判も良い」との評判を勝ち取ることが第一義、転職して評判を得るのは至難の業である(イチローは、あのバッティングスタイルではアメリカでは成功しないとのメディアの評価を実績で覆し、メディアをに謝らせた)。

「評判」について考えてみることは、自分の今後の人生にとって大きな意味・意義があると思うがいかが・・・。

「新日鉄誕生(日経記事)」

1970年に八幡製鉄と富士製鉄が合併してから42年、今年10月に新日鉄と住友金属が合併する。今朝の日経11面、「日曜に考える」欄の『経済史を歩く』2回目の記事が「新日鉄誕生」だったが、1971年入社の私としては、一番に目に留まった記事だった。今年の3月に入社後初めての同期会(http://blog.jolls.jp/jasipa/nsd/date/2012/3/23)があったが、我々同期は純粋に「新日鉄」に生きてきた1期生とも言える(採用時から退職時までほとんどの人が純粋に新日鉄。ただ、いまだに子会社の社長などで活躍している人もいる)。

当時は、米国も鉄鋼生産がピッツバーグを中心に盛んで、世界の鉄鋼業をリードしていた。1967年の粗鋼生産世界一位はUSスチールで八幡、富士は4位、5位に甘んじていた。国内では需要は急増していたが、各社が過当競争の中で溶鉱炉を次々と新設(新日鉄も君津に続き大分も建設)し、製品市況は低迷していた。世界と競争するためには、合併して粗鋼生産世界一、売上高日本一の巨大企業を作り、業界内で強力なリーダーシップを発揮し、過当競争を防ぐこと、それが求められていた。合併直後オイルショックなどの激変があり、粗鋼生産は1973年をピークに頭打ちとなったが、新日鉄はシェアを譲りながら業界秩序を守ったとある。

その後も日産ゴーンショックが契機と言われる、川鉄・日本鋼管の合併(JFE)もあったが、ミタルがアルセロールを買収し、ダントツの粗鋼生産世界一になった頃から、新日鉄はじめ日本の鉄鋼業も買収の危機感から、再編が再度言われ始めた。今回の新日鉄・住金の合併もその流れにあると思われる。日本全体のシェアが頭打ちの状態の中、この合併により粗鋼生産世界2位に浮上できる。

「あの時合併していなかったら、日本の鉄鋼業界は大変なことになっていた」と当時秘書課長や鉱石課長だった勝俣孝雄氏、今井敬氏は言う。当時合併を推進し、多くの反対を押し切った稲山、永野氏の決断は素晴らしいものだったと思う。合併と共に入社した我々は、風土・文化の違いにたびたび遭遇し、苦い思い出も多いが、今となっては、統合に貢献できたことが懐かしくかつ誇らしく思い出される。「先を見た決断」、リーダーシップの重さをつくづく思い知らされる。

当シリーズの3回目は「東京通信工業(現ソニー)」だそうだ。

冲中一郎