SIと運用が消える??!!

日経コンピュータのインターネット記事(http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20121031/433944/)に驚いた。日経コンピューター2012.6.7号の記事の再掲だ。退職してから世間の動向に疎くなってしまった。

リード文に『米IBMが満を持して投入した「Pure Systems」は、ハードとソフトを統合した垂直統合型システムだ。IBMはPure Systemsを「エキスパート(専門家)・インテグレーテッド(統合)・システム」と呼ぶ。これまで「門外不出」としてきたシステムエンジニアのノウハウまでハードに統合したことを表す。ユーザー企業は、社内に専門家を抱えたり、外部のシステムインテグレータに依頼したりしなくても、システムを構築し、運用できるようになる。システムの構築や運用に人手が不要なのは、パブリッククラウドも同じだ。クラウドと、メーカーのハード回帰という二つの垂直統合によって今、システムインテグレーション(SI)と運用というビジネスが大きな岐路に差し掛かっている。』とある。IBMが今年2月に発表したらしい。

アマゾンや、グーグルなどクラウド事業者は既に、ベンダーの手を借りずにソフトやハードを開発し、ユーザーに直接サービスを提供している。そのため、IBMなど大手メーカーは、市場をクラウド事業者に奪われてしまいかねないため、クラウドと同様にシンプルに運用できる製品として垂直統合型システムに力を入れている。ORACLEの「ORACLE Engineered Systems」も、ハードとソフトを工場出荷時に組み合わせ、最適化して顧客に届ける垂直統合型システムだ。ORACLE社は、「顧客のIT支出の70%を占めるインテグレーション費用を不要にする」と言う。IBMは「システムの運用にかかる人件費を86%削減できる」と。国産ベンダーも周回遅れで、垂直統合型システムの強化に方向転換し始めたそうだ。日立は2012年末に市場投入を開始、富士通は2013.3までに発売、NECも2012年度中に市場投入すると言う。

「クラウド」の着実な進展に伴う、大手メーカーとクラウド事業者の戦いとも言えるのだと思う。確かに、ユーザー企業は、メインフレームからオープンシステムへの移行に伴い、マルチベンダー構成によってシステムは複雑化し、インテグレーションや運用のコスト増大に頭を悩ませている。そこに登場した「クラウド」はユーザー企業にとっても大きな魅力になってきていると思われる。

内製化(ユーザー自身がシステム部門を保有)が進み、システムインテグレータや運用ベンダーが不要になるのか?この動きは無視できない。

台湾で最も愛される日本人八田與一

日清戦争で勝利し、第二世界大戦で敗北するまでの50年間(1895~1945)台湾は日本が統治していた。欧米が戦争で勝った国を植民地とするのは、人や資源を搾取し、奴隷化することが目的だったが、日本は統治国を日本の一部として、国のインフラ整備や教育などに力を入れる施策を取ってきた。当時の台湾総督府では、都市計画の策定・実行や、学校の建設、鉄道建設、水利施設の整備など、台湾を日本以上の国にするための施策を打った。

その中でも、24歳の時(1910年)に台湾総督府に技手として勤務した金沢出身の八田與一氏は、56歳に亡くなるまで、ほとんど全生涯を台湾のために尽くし、今でも「台湾でも最も愛される日本人」として台湾の人の心に生き続けている。

台湾南西部の嘉南平野にある当時アジア一と言われた烏山頭ダムの建設と1万6000キロにおよぶ灌漑用水路の建設に携わり、それまでサトウキビさえ育たなかったと不毛の地域を、台湾最大の穀倉地帯にした。人間味ある現場責任者として、農民に親しまれたそうだ。10年にわたる大工事の最中、不幸にもトンネル工事で50数名が殉職した際、遺族全戸を回り、工事の継続をお願いしたというエピソードもある。場所は植民地である。

1600㍍以上の堰堤といい巨大な烏山頭ダムが完成し、轟音をたてて躍り出た豊かな水が、嘉南平野に張り巡らされた水路に流れ込み、みるみる一帯を潤した姿を見た農民は「神の恵みだ。天の与え賜うた水だ」と歓喜の声をあげたそうだ。八田氏はその後、台北に移り、太平洋戦争でフィリピンに従軍する船が撃沈され亡くなられた。戦争に負けて、台湾にいた日本人は全員日本への帰還を命ぜられたが、八田氏の奥様は、烏山頭ダムの放水口に身を投げ八田氏の後を追われた。

烏山頭には夫妻の銅像が立ち、命日には毎年追悼式が行われている。中学校の歴史教科書にも掲載され、学校教育の場でも語られている。昨年には「八田與一記念公園」が開園し、今年には記念切手が発売になり、1000年近くたっても今の台湾の人たちに語り継がれている。昨年の東日本大震災時、台湾国民の募金として200億円が日本に贈られた。この額が、世界一だったと言うことで台湾の多く人たちが喜んだとの報道もあったが、まさに八田與一氏への恩返しと言う意味があったのかも知れない。

エルトゥールル号遭難者救助の世にも美しい話

当ブログで、「日本人の誇り」としてトルコ地震の犠牲者宮崎さんの話を紹介した(http://blog.jolls.jp/jasipa/nsd/date/2012/11/18)。その中で、トルコが親日国家となる大きな契機となった1890年の「エルトゥールル号」の事を記した。和歌山県串本沖での遭難者救助の話だ。その記事に関して、和歌山県出身のJASIPA会員FBI白井さんから和歌山県人が集まる「紀友会」での当事故に関わるスピーチの記事(2010.5.27)に関して紹介があった(http://kiyukai.com/www/siryou/18-genkou.pdf)。講演者のお爺さんが救助の当事者だ。

この記事を見ていただくと、遭難時刻は夜の8時から9時頃、熊野灘を吹きすさぶ台風の猛威の中、そして40メートル近い断崖の下に流れ着く、生存者、死亡者が入り混じる中、生存者を見極めながら、一人一人背負いながら1キロもある道を寺や小学校に運び込んだと言うことです。寒さに震える人に、人肌で温めて介抱に当たった。医師の手当ても受けながら、60戸位しかない小さな樫野村の人たちは、69名のために全村挙げて衣食を提供した。当時の樫野村は半農半漁だったが、米は貴重な食料だったが、蓄えていた米はすべてトルコ人のために供出し、足りなくなった時はサツマイモを掘って提供。非常食用のニワトリも集められたそうだ(ニワトリ料理はお正月とかめったに食べられない料理だった)。遺体捜査で長崎県のダイバーが協力したり、兵庫県からドイツ軍艦の提供(負傷者を神戸に送り治療を受けた)があったり、全国レベルでの支援があった。結局生存者は、約1か月後に神戸から、日本政府が派遣した「金剛」、「比叡」の2艦に分乗しイスタンブールに帰ったとの事。その「比叡」には「坂の上の雲」主人公秋山真之が、海軍兵学校の卒業航海を兼ねて乗艦していたそうだ。

治療に当たった医師に対して、日本政府は治療費の支払いを申し出たが、医師は「そのようなお金があるなら生存したトルコの方々に上げてください」と断ったとのこと。離島の小さな村で食糧や薬なども乏しい、このような困難な状況にありながら、何の名誉も見返りも求めることなく、ただ目前の人々を救おうとした先人たちの勇気と誠意には頭が下がる。これこそ、日本人にしか出来ない美質といえると思う。

今、和歌山県では、トルコと日本の絆の礎となったこの史実を映画にし発信しようと今年、NPO「エルトゥールルが世界を救う会」(浦聖治理事長)が設立されたそうだ。来年秋クランクインだそうだ。このような話は、教育も含めて、もっと広めるべきではなかろうか。

FBI白井さん、情報提供ありがとうございました。「紀友会」の会長がKDDIの安田さんだということを初めて知りました。安田さんも和歌山出身だったんだ。

冲中一郎