日本酒“獺祭”はかくして生まれた!

1月16日のブログ(http://okinaka.jasipa.jp/archives/2291)でも”獺祭”について触れた。その際、「致知2015.5」~焦点を決めて生きる~特集号の”獺祭“の記事を思い出し読み返してみた。旭酒造桜井博志社長へのインタビュー記事だ(「おいしい酒、味わう酒 その一点を求め続ける」)。

勘当同然で家を出て、石材の卸会社を起こしていた桜井氏が、親の急逝で社長を継いだのが40年前。岩国の山の中獺越村は人口減も激しく、そこにある旭酒造も惨憺たる状態だった。桜井氏も当時は、社員にモラルも危機感もなく、倒産か自殺かという状況だったと振り返る。そのような状況から如何に脱して、普通酒の「旭富士」から大吟醸酒「獺祭」に方向転換できたのか?

・まずは、これまでの常識を疑い、純米大吟醸を作りたいとの思いを抱き再出発。

一級酒以上は大手メーカーがやることで地方メーカーは二級酒との風潮に対し、それまでの普通酒の製造をやめて、高級な純米大吟醸に一本化。薄利多売のビジネスモデルから、高付加価値品でブランド化する戦略転換を決断した。そして、伝統的な酒造りである杜氏とその下で働く蔵人集団体制(オーナー社長は酒造りに口出しできず販売に徹するのが慣例)を打破。社長が口出しできる酒造りを目指すと同時に、蔵内を年中5℃に保つことで年中酒造りができる体制にするために季節労働者の杜氏(夏は農業従事)制度をやめ、自社社員で造ることにした。そのために、酒造り工程のデータ分析を徹底的に行い杜氏の「勘と経験」を超える工夫によって、ブレが出ないという意味で、勘と経験に頼った酒造りよりも良いものが造れるようにした。

いずれも、そう簡単に進んだわけではない。まず販売面では、地元岩国で販売競争をするのは止めて、青森などの地で販売を試みた。が見向きもされず、たまたま東京多摩の酒店が取り扱ってくれることになって、大ヒットさせた。卸業者を経由せず直取引にしたが、その際も大きな軋轢を生んだ。いろんな苦難を乗り越えられたのは

自分がやるしかないと腹を括ったところから知恵が出る、そしてその支えになったのは「旭酒造があることが社会の為になっている」との実感だ。

旭酒造の理念は

「酔うため、売るための酒ではなく、味わう酒を求めて」

飲んで酔っ払ってもらえればいいと言うのではなく、酒を味わってもらいたいとの思いだ。最高品種「山田錦」を最大77%も磨き芯の部分だけを使うことで 獺祭のフルーティーな香りと味が生まれた。今年には、本蔵の改築が完了し、5万石の生産体制が整うとのことだ。いま日本経済は成長戦略の実現が課題となり、かつ地方創生が叫ばれているが、経営者の卓越した判断力、現場の力をまとめ引き出す能力こそが問われている。桜井氏も、試行錯誤で苦しんでいるとき、船井幸雄氏の本を読みながら経営の勉強をし、大いに参考にしたと言う。

鎮魂の日、阪神大震災から20年!

今日1月17日は忘れられない日だ。この日は三連休明けの早朝だった。私の住んでいた姫路は震度4だったが、2階で寝ていて地震に気付き慌てて1階に降りた。食器棚から一部食器がドアの外に出ており、これは大変だと急いで着替え、車で会社に飛んで行った(10分強)。当時私は、広畑システムセンター所長でもあり、新日鉄製鉄所を動かす計算センターの計算機の状況が気になったからだ。計算機室に入ると、オペレーターはまだ気が動転しているようで、いまだ目の前で起こったことが信じられないような顔をしていた。当時は、巨大な固定ディスク装置が何台も並ぶ壮大な計算機室の中で、地震対策で固定している筈の装置が動いたとの事。どうしようもないと半ばあきらめ状態だったが、なんとか計算機は止まらなかったと言うことを聞き安堵したことをはっきり覚えている。SEたちがいるセンターに戻ると、大きな壁ガラスがひび割れていた。システムバグで呼び出しを受けたSEが、車で計算センターへ向かうとき、丁度震災が発生した時西に向かって走っていると西の空がピカッと光ったのを見たとのこと。

神戸がこんな大災害になっていることは、昼前に名古屋の同僚からの電話で初めて知った。幸い広畑製鉄所は生産への影響も最小限だったことから、大きな騒ぎにはならなかったが、お隣の神戸製鋼加古川製鉄所では岸壁のクレーンが倒れ大変なことになっていた。夜遅く自宅に帰ると、庭の灯篭が倒れ、横の壁に大きな穴が開いていた(灯篭が倒れるのは昔の基準では震度5)。

以降、大阪や東京に出張するにも不便で、当初は播但線、福知山線経由で4~5時間かけて大阪まで出ていた。しばらくして神戸の三田までバスが出るようになり、随分と時間が短縮になった記憶がある。大阪から切れ切れになった在来線で帰る時、神戸の惨状を目の当たりにし、阪神大震災の残酷さを目の当たりにした。大学に行っていた息子たちも帰ってきて神戸まで通いボランティアに精を出していた。いてもたってもおられない状況だったのだろう。

1995年は私にとっても、大きな転機の年とも言える。3月のサリン事件も遠く離れた東京の事件と思っていたが、広畑製鉄所在籍24年を終え、6月に初めて住むことになる土地東京への転勤辞令を受けたのだ。以来、私も阪神大震災と同じく、今年で東京生活20年になる。

東日本大震災ももうすぐ4年だ。神戸もやっと大震災前の人口が元に戻ったと言う。が震災未経験者が44%だと言う。活断層だらけの日本はどこでも震度7クラスの大地震が起こる可能性があると言われている。今日は新聞もテレビも阪神大震災特集だ。常に危機意識を持って行動するためにも、このような経験を風化させず、語り継いでいくことが必要だ。今日1日はしっかりと20年前を思い出しながら、防災を考えながら気を引き締めたい。

一粒1000円のいちごがITで(宮城県山元町)

標題の報道を何かで見て驚いたのを思い出した。インターネットで調べると、一房25,000円(石川県産)のぶどうもあるそうだ。これらが、ITによるデータ管理で実現していると言う。1月7日付けの日経朝刊「イノベーション2015④~IT農業~」では様々な分野でのITの活用が進んでいることを紹介している。これまで人の経験と勘に頼るしかなかった農業がITで、儲かる農業、低コストで誰でも出来る農業に変わろうとしている

野菜の収穫日と収穫量を事前に予測するサービスをNTTデータと日本総合研究所が折半出資のJSOLが開発、2日程度の誤差で収獲日が予測できるそうだ。農業への「トヨタカイゼン方式」を取り入れた農作業管理ソフトを導入して作業効率を上げたところもある。品薄が続く日本酒「獺祭」を製造する旭酒造は、不足気味の原料米山田錦の安定調達の為に富士通の農業クラウドを導入。いつ、どの農場でどんな作業をしたか、稲の丈や茎の数などのデータをパソコンやスマートフォンなどで記録し、最適な栽培条件を分析する。今年から本格的に、この取り組みに参加する生産者を増やし、増産体制をとるとの事だ。

富士通は、今年ベトナムに植物工場を稼働させるなど、農業クラウドをアジア各国に本格展開するそうだ。農業メーカーの井関農機や、ヤンマー、クボタも、IT活用に本腰を入れ始めたと言う。加えて米グーグルも昨年11月に。農業技術ベンダーや技術面で支援する「ファーム2050」を立ち上げた。

冒頭の「いちご一粒1000円」の件は、東京でIT企業を経営していたGRAの岩佐大輝社長が、壊滅した故郷のイチゴ産地を、新しい形で甦(よみが)えらせた話だ(伊勢丹で販売)。岩佐さんの凄いところは、産地を震災前の元に戻す復興ではなく、世界最高級の産地へと突き抜ける戦略をとったことだ。岩佐さんはこれを「創造的復興」と呼んでいる。そこで栽培されるイチゴやトマトは、温度、湿度、日照、水、風、二酸化炭素、養分などが全てITで制御されている。制御データには、この道35年のベテランいちご農家の匠の暗黙知を組み込んだ。インドにも進出し、同じ手法でのいちご栽培を目指している。このようなことが出来たのは、岩佐さんの地元の復興にかける熱い思いと、地元の皆さんとの徹底的なブレストを通じての応援、そして東京のIT経営者仲間(プレボノチーム)の支援があったから。山元町の人口1万に対し、見学者が2013年で約4000人だったそうだ。

2050年には地球人口が100億人になり、食料を70%増産しなければならないという。と共に日本では地方再生、農業再生を重要な成長戦略として進めようとしている。日経の記事にもある「脱“経験と勘”効率アップ」に加えて、世界最高級のものを作り世界に広げて行く施策も重要になるが、いずれにしてもITの出番だ。

「いちご1000円」の話は「一粒1000円のイチゴをつくる「データ農業」」(DIAMOND Online」(http://diamond.jp/articles/-/49347)より。

 

冲中一郎