鎮魂の日、阪神大震災から20年!


今日1月17日は忘れられない日だ。この日は三連休明けの早朝だった。私の住んでいた姫路は震度4だったが、2階で寝ていて地震に気付き慌てて1階に降りた。食器棚から一部食器がドアの外に出ており、これは大変だと急いで着替え、車で会社に飛んで行った(10分強)。当時私は、広畑システムセンター所長でもあり、新日鉄製鉄所を動かす計算センターの計算機の状況が気になったからだ。計算機室に入ると、オペレーターはまだ気が動転しているようで、いまだ目の前で起こったことが信じられないような顔をしていた。当時は、巨大な固定ディスク装置が何台も並ぶ壮大な計算機室の中で、地震対策で固定している筈の装置が動いたとの事。どうしようもないと半ばあきらめ状態だったが、なんとか計算機は止まらなかったと言うことを聞き安堵したことをはっきり覚えている。SEたちがいるセンターに戻ると、大きな壁ガラスがひび割れていた。システムバグで呼び出しを受けたSEが、車で計算センターへ向かうとき、丁度震災が発生した時西に向かって走っていると西の空がピカッと光ったのを見たとのこと。

神戸がこんな大災害になっていることは、昼前に名古屋の同僚からの電話で初めて知った。幸い広畑製鉄所は生産への影響も最小限だったことから、大きな騒ぎにはならなかったが、お隣の神戸製鋼加古川製鉄所では岸壁のクレーンが倒れ大変なことになっていた。夜遅く自宅に帰ると、庭の灯篭が倒れ、横の壁に大きな穴が開いていた(灯篭が倒れるのは昔の基準では震度5)。

以降、大阪や東京に出張するにも不便で、当初は播但線、福知山線経由で4~5時間かけて大阪まで出ていた。しばらくして神戸の三田までバスが出るようになり、随分と時間が短縮になった記憶がある。大阪から切れ切れになった在来線で帰る時、神戸の惨状を目の当たりにし、阪神大震災の残酷さを目の当たりにした。大学に行っていた息子たちも帰ってきて神戸まで通いボランティアに精を出していた。いてもたってもおられない状況だったのだろう。

1995年は私にとっても、大きな転機の年とも言える。3月のサリン事件も遠く離れた東京の事件と思っていたが、広畑製鉄所在籍24年を終え、6月に初めて住むことになる土地東京への転勤辞令を受けたのだ。以来、私も阪神大震災と同じく、今年で東京生活20年になる。

東日本大震災ももうすぐ4年だ。神戸もやっと大震災前の人口が元に戻ったと言う。が震災未経験者が44%だと言う。活断層だらけの日本はどこでも震度7クラスの大地震が起こる可能性があると言われている。今日は新聞もテレビも阪神大震災特集だ。常に危機意識を持って行動するためにも、このような経験を風化させず、語り継いでいくことが必要だ。今日1日はしっかりと20年前を思い出しながら、防災を考えながら気を引き締めたい。

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