運命を変えた言葉スペシャル(NHKプロフェッショナル)

19日のNHK番組「プロフェッショナル仕事の流儀」で「言葉の力SP」と称して8名のその道のプロが自分の人生を変えた言葉を紹介していた。印象的なものを紹介する。

●“裂き3年、串打ち3年、焼き一生”という、うなぎの世界。この道を70年にわたって追求し、80歳を超えてもいまなお研さんを続ける金本兼次郎には、みずからを支える「言葉」がある。天然ウナギを使うのが江戸時代からの伝統だったが、天然が激減し、養殖ウナギを使わざるを得ない状況になった時、これでいいのかと疑問に思う日々を送っていた金本に北海道の菓子職人の一言(その菓子職人は店名を変えることで悩んでいた)。

「のれんにだけ頼っているのなら別だが、本物を作っているのなら心配ない」。

この言葉で金本は養殖ウナギで道を極めた。

●温水洗浄便座などの「包装」の設計で、業界の注目を集める包装管理士・岡崎義和。段ボールに細かな切れ目を入れるだけで複雑な立体を組み上げる。結果、作業の手間は従来の5分の1。これまで実に数十億もの利益をもたらした。しかし、岡崎はもともと上司に食って掛かるとんでもない不良社員だった。だれもが部下にしたくないと煙たがれている時、ある上司からかけられた言葉。

言いたいことがあるんだったら、ちゃんとやれ

とにかく上司の指示に反発し、やる前からできない言い訳をすぐ口に出す。それではいつまでも認めてもらえない。だからまずやってみて、結果を出してから言えとのこと。その後も紆余曲折あったが、常にこの言葉を思いだし、頑張った。実は誰もが軽んじていた包装部門に配属を命じられた時、一時不満もあったが、この言葉を胸に人一倍働き、15年後「会社の宝」になった。

●指や耳など、身体の一部を補う「義肢」。本物そっくりなだけでなく、依頼主の暮らしや事情に合わせた機能性を持つのが、義肢装具士・林伸太郎の生み出す義肢だ。10代の頃、特に夢もなく過ごしていた林。高校にもあまり通わず、卒業しても定職には就かなかった。そんなとき、妻となった香苗さんとの交換日記に記されていた、ひとつの言葉に出会う。

気づきが、大切だ

その言葉は、林が義肢装具士になったとき、より大きな意味を持つようになっていく。さまざまな事情を抱えてやってくる依頼主。その、決して言葉では言い表すことのできない細やかな気持ちに、どこまで気づけるか。それこそが、仕事を大きく左右するのだ。激しく踊るダンサーの義足も作った。

●海外の首脳からも指名されるほどの同時通訳で有名な71歳の長井鞠子。しかし40代に入った頃、長井は人生の試練に直面した。長年連れ添った夫との離婚。さらに仕事で準備不足で失態をおかし、その通訳の現場からは出入り禁止となってしまう。失意の時、信頼する母からもらった言葉。

一心に突き進んでいる姿が、まさにあなたそのもの。一心に、あなたらしく生きればいいのよ

本当の自分らしさを取り戻した長井。そのあと迷いを吹っ切り、一心に仕事に突き進んでいった。

窮地に陥った時、逆境の時、これという言葉に出合った人の人生は見事に変わる。しかし、素直さ、謙虚さを持って受け入れなければ出合う事も無い。まさに「気付きの言葉」との出会いだ。

待ちに待ったペラルゴニウムが満開!

今年もペラルゴニウムの満開の時期がやってきた。4月には木香バラ、そしてピンクのバラやベルフラワーなどがベランダを賑わしてくれたが、ペラルゴニウムが咲き始めると一気にベランダの主役が交代する。ペラルゴニウムはゼラニウムの仲間で、ゼラニウムは我が家のベランダでも通年咲きほこっているが、ペラルゴニウムは春先から初夏頃までに花を咲かせる。これから6月~7月頃まで楽しませてくれる。挿し木でどんどん増やせるので、毎年増える一方だ。ペラルニウム・ビオラを集めて撮影した写真だ。5枚目以降は、他の種類のペラルゴニウムだ。

今ベランダを賑わしているゼラニウム、ベルフラワー、ペチュニア、ニオイバンマツリ,ブルーサルビアだ。今が一番花が多い時かも知れない。水やりが大変だ。

ハーゲンダッツの牛乳はJA浜中町のもの!

「TPPがあろうがなかろうが、私たちは生き残っていかなきゃならない。そのためには、皆さん一人一人が経営者にならなきゃダメ」というのは、北海道の釧路と根室の中間に位置するJA浜中町代表理事組合長の石橋榮紀(しげのり)氏。全国から若い夫婦が新規就農で入って来て、その新規就農者が浜中町全体生産組合員の2割を占める。「私もハーゲンダッツの原乳をつくりたい」との思いも手伝って来てくれる。その若い人たちが嬉々として働く姿を見て地元の後継者率が70%、耕作放棄地ゼロを達成。184戸の小さな農協で、年間販売額98億円と言う。(「致知2014.6」の「かくて地域は甦った」とのテーマでの荻しーまーと駅長の中澤さかな氏との対談記事より。)

昭和53年の第二次オイルショックでの減産型生産調整(絞った牛乳の1割は出荷禁止)で全国の乳業業者は大きな打撃を受け、浜中町でも雪印乳業が合理化の一環で工場を閉鎖してしまった。その時、農協の理事だった石橋氏は「いいものを作れば売れる筈」と「世界一の牛乳を作ろう」と決意。そしてアメリカでは既に取り入れられていた、土壌と草の関係、牛乳の成分などデータに基づく「見える管理」を行うため、周囲の反対を押し切って「酪農技術センター」を全国に先駆けて作った(現在もこれだけの機能を持つのは、農協では浜中町だけという)。「見える化」管理によって、日本唯一のブランド「北海道4.0牛乳」を昭和58年に開発。これが、ハーゲンダッツの牛乳に選定されることにつながる。雪印乳業撤退後、すぐ「タカナシ乳業」が浜中町に進出。その頃、タカナシ(製造)とサントリー(販売)が出資してハーゲンダッツジャパンを設立。当初はアメリカから製品を持ってきていたが、タカナシが日本で製造するために牛乳の仕入れ先を捜していた。成分はもちろんだが、温度管理など厳しい管理の要求もあり、大手メーカーは手を引いた中で、浜中町の牛乳に目をつけた。一度でも品質事故を起こすとブランド力も信用もガタ落ちとなるリスクを感じているタカナシは浜中町の「酪農技術センター」に注目し、採用を決定したそうだ。今でも、浜中町の牛乳を使って、タカナシ高崎工場で、ハーゲンダッツを製造している。タカナシ乳業は当時乳業メーカーでは84番目だったのが、今は№5だと言う。

新規就農者に対して全国初の「就農者研修牧場」を平成3年に作ったが、この時も行政は大反対で、地元の学校で育成すればいいとの大合唱。しかし、20年経った今ではようやく国や農業団体が「浜中のような制度を作ろう」と勉強を始めたそうだ。

石橋氏は、「トップが如何に高い志を持ち、夢を語るか、それが組織の盛衰を決める」と言う。「世界一の牛乳を作ろう」とのビジョンで組合員を巻き込みながら、反対勢力も時間をかけて納得させた行動力が今を作っている。現在は「世界一クリーンな環境で牛乳を搾る」との目標を持って、いまから3年前に全国で初めて1050kwのメガソーラーを作り、約750台のトラクターを牛の糞尿を活かしたバイオマスガスで動かそうとしている。

今朝の新聞でも1面全面にJAがTPPに関する広告を出している。そのような動きの中で、政府は成長戦略の一つに農業改革を打ち出し、JAの改革も視野に入れているが、一律的な改革ではなく、JA浜中町のように頑張っているところをさらに応援するような施策もぜひ検討して欲しいと思う。