「数独」にはまる?

前回(http://jasipa.jp/blog-entry/8977)、趣味はないと言ったが、以前スマートエイジングの秘訣7か条の一つ、「脳を活性化するため、脳のトレーニングを行う」で数独をやっていることを書いた(http://jasipa.jp/blog-entry/8376)。

家内が最初に始めたが、退職後時間が出来たこともあって、私もやって見ることにした。やり始めると、いろんなルールに気付くのが楽しく、脳トレとしての面白さにはまりかけている。家内との力量差は明白(?)で、回答目標時間90~120分は私の担当、75分以下は家内の担当との分担としている。しかし、最近、家内がコツをつかんだのか、90分問題まで手を伸ばしはじめた。「こんな説き方発見!」と言って嬉々として説明に来るが、大抵は私にとっては当たり前の解法ルール。しかし、私の気持ちは例の独楽吟(http://jasipa.jp/blog-entry/8699)で表現すると

たのしみは、スイスイ解けると、得意げに、満面笑みの、家内見るとき

家内の名誉のために行っておくが、毎日の料理、買い物、掃除や、趣味の刺繍、花の世話などやるべきことをしっかりやりながら、その合間を縫って数独に励んでいる。お互いに、ボケ防止と、家庭平和のためと思って続けている。

私のブログの検閲者である家内。ちょっとゴマすりすぎたかな?

男の料理!めげずに挑戦(朝日新聞)

初めてカテゴリー[趣味]を書くことになった。「趣味がないのが趣味」、「仕事が趣味」と言い訳がましく言ってきたが、退職して時間が出来ると「何か趣味をやらねば」との思いが強くなる。学生時代下宿で遊んだ囲碁、会社に入ってから始めたゴルフ、中高とやっていたソフトテニス(我々の時代は軟式テニスと言った)、どれをとっても中途半端で、ものにならない。退職する時、そんな私を見かねて、料理の本を送ってくれた人が二人いたが、まだ取り組めていない。やる気はあるのだが、料理が得意な家内から「習うなら見習い生活の厳しさ覚悟ね」と言われ、ちょっと躊躇している(笑)。

男の料理に関して、8月16日の朝日新聞23面に「男の料理、めげずに挑戦」との記事があった。リード文に「計量カップなんて見たことない。タンザクギリって日本語?定年退職後に初めて料理に挑戦する男性は、思わぬところでつまずくようです」とある。「男子厨房に入らず」世代の悲しさか。レシピに「大根は3~4㌢の細切りに」とあると大根に定規を当てながら3㌢なのか4㌢なのか分からず腹を立て3.5㌢に切った。「片栗粉適量」ってなんやねん?「5分煮る」とあれば焦げても5分続ける。料理教室を開くベターホーム協会が講師にアンケートしたところ、特徴が八つ挙がったと言う。「基礎知識がない」「科学的な説明が響く」「曖昧な表現が苦手」「マニュアル志向が強い(料理の状態を見て加減できるよう補足する)」「計量が苦手」「火加減の調節が苦手」「並行作業が苦手」「後片付けが苦手」。自分に当てはめると、ほとんど思いあたる?このアンケートを踏まえ、協会は今夏、初心者の男性向けに、手引書「男の昼ごはん読本」を発行し、レシピ16品を掲載。「塩少々」は「指2本(親指・人差し指)でつまんだ量の事」など具体的に説明してあるそうだ(300円で協会に申し込めば送ってくれる)。

定年退職した男性の妻にアンケートをとった所、「夫の昼食は妻が作る」が82%、「夫に料理して欲しい?」には37%が「してほしいと思わない」と。理由は台所が汚れる、材料費が高くつくなど。東日本大震災の経験などを踏まえ、ベターホーム協会など男性に料理の力をつける様々な施策をうっているが、妻の協力と勇気も必要と訴える。男性がくじけず続けられるよう、時には「きれいに切ったね」「おいしい」と褒めることも推奨する。

早速、ベターホーム協会のホームページを調べてみた。男の料理教室1年コースがある。最も近いのが銀座だが、考えて見ようと思う。何か打ち込める趣味を作るためにも。奥様、協力して頂けますか?

「言霊の幸う国」の教育とは

日本のことを「言霊(ことだま)の幸う(さきわう)国」と万葉の時代から言われているそうだ。「致知」の連載「日本の教育を取り戻す(中村学園大学教授占部賢志氏著)」の4回目に「短歌に感動を刻む~言霊の幸う国」の教育とは」とのテーマの記事があった(以前「語り継ぎたい美しい日本人の物語」の連載で占部氏の記事を紹介http://blog.jolls.jp/jasipa/nsd/date/2011/10/13)。

高校教諭を経て真正面から日本の教育に取り組まれてきた占部氏が説くのは、今の学校教育で欠けているのが「自己省察」だと。登校拒否や引きこもり、対人関係不適切などの現象は、自己に囚われてしまうから生ずるのではなく、むしろ自己との付き合いが出来ていないから起きると言う。そこで高校教諭時代に取り組んだのが短歌の創作と批評だ。その契機となったのが、田安宗武(徳川御三卿の一人)の「歌体約元」だった。宗武は、「そもそも歌と言うものは、人の心のうちを表現するものだから、素直な人は歌も素直。ふざけた人は歌も似たものとなる。隠そうとしても隠せない。歌とはそういうものだ。だから己の良し悪しも歌に詠んでみればはっきりと自覚できる。」と。要するに、ダメな歌だと思ったら推敲して言葉を改める。すると不思議に自分の心に潜む邪悪なものが消えて素直な心に変化するものだと言う。

占部氏は例を挙げる。授業態度にあきれて

我が授業聞かずざわめく悪童よ、赤点つけて怨み晴らさん

しかし考えてみれば、自分は生徒が食いつくような授業をしていただろうか?そんな反省から

悪童も聞き入る授業目指さんと、ひと夜を込めて教材つくる

こんな短歌の言葉に誘われるように、己の心の内も、あの悪童たちが身を乗り出すような授業をやってみよう、そのために教材開発をやろうと、そんな意欲が次第に心を満たしていく。このことが宗武が説いた歌の神髄。

占部氏が教育に採用して、記憶に残る歌を挙げる。オリエンテーリング合宿で悪童のリーダー的存在の生徒が作った句。

朝起きて耳をすませばにわとりが
夜が明けたよと教えてくれる

対人関係が苦手で修学旅行のスキーに行くのも躊躇した女性が詠んだ。

スキー終え帰りの道のバスの中
思わず足に重心かける

ゲレンデでの練習を思い出し、ボーゲンの格好をバスに揺られながら自習していた。休みがちだった彼女は以降皆勤。台風一過の登山で

台風の強さに負けず育つ木々
そのたくましさに我も見習う

同じ登山でもう一人は

英彦山の山に登りて見渡せば
木々が倒れてあわれに思う

見方は違うが、それぞれの個性とも言うべき感受性が表現されている。生徒たち一人一人に潜在化している個性が、言葉を通してほんの少し顔をのぞかせる。そして、自分を省みることが出来、前向きな取り組みに自分を導く大きな契機となっていると言う。

以前「楽しみは・・・」で始まる独楽吟を紹介した(http://jasipa.jp/blog-entry/8699)たしかに下手でも詠むと気持ちが随分変わる実感を覚える。短歌やってみようかな?