台湾で最も愛される日本人八田與一

日清戦争で勝利し、第二世界大戦で敗北するまでの50年間(1895~1945)台湾は日本が統治していた。欧米が戦争で勝った国を植民地とするのは、人や資源を搾取し、奴隷化することが目的だったが、日本は統治国を日本の一部として、国のインフラ整備や教育などに力を入れる施策を取ってきた。当時の台湾総督府では、都市計画の策定・実行や、学校の建設、鉄道建設、水利施設の整備など、台湾を日本以上の国にするための施策を打った。

その中でも、24歳の時(1910年)に台湾総督府に技手として勤務した金沢出身の八田與一氏は、56歳に亡くなるまで、ほとんど全生涯を台湾のために尽くし、今でも「台湾でも最も愛される日本人」として台湾の人の心に生き続けている。

台湾南西部の嘉南平野にある当時アジア一と言われた烏山頭ダムの建設と1万6000キロにおよぶ灌漑用水路の建設に携わり、それまでサトウキビさえ育たなかったと不毛の地域を、台湾最大の穀倉地帯にした。人間味ある現場責任者として、農民に親しまれたそうだ。10年にわたる大工事の最中、不幸にもトンネル工事で50数名が殉職した際、遺族全戸を回り、工事の継続をお願いしたというエピソードもある。場所は植民地である。

1600㍍以上の堰堤といい巨大な烏山頭ダムが完成し、轟音をたてて躍り出た豊かな水が、嘉南平野に張り巡らされた水路に流れ込み、みるみる一帯を潤した姿を見た農民は「神の恵みだ。天の与え賜うた水だ」と歓喜の声をあげたそうだ。八田氏はその後、台北に移り、太平洋戦争でフィリピンに従軍する船が撃沈され亡くなられた。戦争に負けて、台湾にいた日本人は全員日本への帰還を命ぜられたが、八田氏の奥様は、烏山頭ダムの放水口に身を投げ八田氏の後を追われた。

烏山頭には夫妻の銅像が立ち、命日には毎年追悼式が行われている。中学校の歴史教科書にも掲載され、学校教育の場でも語られている。昨年には「八田與一記念公園」が開園し、今年には記念切手が発売になり、1000年近くたっても今の台湾の人たちに語り継がれている。昨年の東日本大震災時、台湾国民の募金として200億円が日本に贈られた。この額が、世界一だったと言うことで台湾の多く人たちが喜んだとの報道もあったが、まさに八田與一氏への恩返しと言う意味があったのかも知れない。

エルトゥールル号遭難者救助の世にも美しい話

当ブログで、「日本人の誇り」としてトルコ地震の犠牲者宮崎さんの話を紹介した(http://blog.jolls.jp/jasipa/nsd/date/2012/11/18)。その中で、トルコが親日国家となる大きな契機となった1890年の「エルトゥールル号」の事を記した。和歌山県串本沖での遭難者救助の話だ。その記事に関して、和歌山県出身のJASIPA会員FBI白井さんから和歌山県人が集まる「紀友会」での当事故に関わるスピーチの記事(2010.5.27)に関して紹介があった(http://kiyukai.com/www/siryou/18-genkou.pdf)。講演者のお爺さんが救助の当事者だ。

この記事を見ていただくと、遭難時刻は夜の8時から9時頃、熊野灘を吹きすさぶ台風の猛威の中、そして40メートル近い断崖の下に流れ着く、生存者、死亡者が入り混じる中、生存者を見極めながら、一人一人背負いながら1キロもある道を寺や小学校に運び込んだと言うことです。寒さに震える人に、人肌で温めて介抱に当たった。医師の手当ても受けながら、60戸位しかない小さな樫野村の人たちは、69名のために全村挙げて衣食を提供した。当時の樫野村は半農半漁だったが、米は貴重な食料だったが、蓄えていた米はすべてトルコ人のために供出し、足りなくなった時はサツマイモを掘って提供。非常食用のニワトリも集められたそうだ(ニワトリ料理はお正月とかめったに食べられない料理だった)。遺体捜査で長崎県のダイバーが協力したり、兵庫県からドイツ軍艦の提供(負傷者を神戸に送り治療を受けた)があったり、全国レベルでの支援があった。結局生存者は、約1か月後に神戸から、日本政府が派遣した「金剛」、「比叡」の2艦に分乗しイスタンブールに帰ったとの事。その「比叡」には「坂の上の雲」主人公秋山真之が、海軍兵学校の卒業航海を兼ねて乗艦していたそうだ。

治療に当たった医師に対して、日本政府は治療費の支払いを申し出たが、医師は「そのようなお金があるなら生存したトルコの方々に上げてください」と断ったとのこと。離島の小さな村で食糧や薬なども乏しい、このような困難な状況にありながら、何の名誉も見返りも求めることなく、ただ目前の人々を救おうとした先人たちの勇気と誠意には頭が下がる。これこそ、日本人にしか出来ない美質といえると思う。

今、和歌山県では、トルコと日本の絆の礎となったこの史実を映画にし発信しようと今年、NPO「エルトゥールルが世界を救う会」(浦聖治理事長)が設立されたそうだ。来年秋クランクインだそうだ。このような話は、教育も含めて、もっと広めるべきではなかろうか。

FBI白井さん、情報提供ありがとうございました。「紀友会」の会長がKDDIの安田さんだということを初めて知りました。安田さんも和歌山出身だったんだ。

ツタンカーメン展に行って来ました

12月4日上野の森美術館で開催中のツタンカーメン展に家内と行ってきた。日本では47年前、かの有名なツタンカーメン王の「黄金のマスク」で日本を熱狂させて以来のことだ。日本の美術展史上、最多入場者数約295万人の記録はまだ破られていないとか。今回は大阪合わせて11月25日段階で173万人を達成し、史上2位の記録となったそうだ。なぜここまで、日本を熱狂させるのか?

会場に着く(11時頃)と、いきなり「30分待ち」との表示が目についた(「ホームページで混雑状況のお知らせをしています」との張り紙もあった)。4日は朝の内は雨模様で、平日でもあり、すんなり入れると思っていったら、2百人ほどの待ち行列だ。係員に尋ねたら、これから増えてくると思うので今が一番いいと言われ仕方なく並んだ。中に入って見て驚いた。ツタンカーメンの王墓から見つかった副葬品約50点など、日本未公開の展示品を含むエジプト考古学博物館(カイロ博物館)所蔵の122点が展示されている。黄金のカノポス(ツタンカーメンの内臓が保管されていた器)や、ツタンカーメンのミイラが身にまとっていた黄金の襟飾りや短剣など、ツタンカーメン王墓をはじめ王家の谷などから考古学調査によって発見された、美術的にも考古学的にも大変貴重な品々だそうだ。今回は「黄金のマスク」はなかったが、今から3400年前のものとは思えない鮮やかな色合いや、金箔細工など、日本で言うと縄文時代後期に当たる時期の、エジプト文明のすごさに驚かされた。会場内もすごい人だったが、すべての展示品を見ることが出来、1時間強で会場を出た。

上野の森は、丁度紅葉が見ごろの時であり、天気も良くなってきたこともあって、少し散歩をした。昼飯は寛永寺の鐘楼に隣接する明治8年創業、一時横山大観がオーナーの時もあったという「韻松亭(いんしょうてい)」に行った。丁度昼飯時とぶつかり、ここも待ち行列で20分程度待たされたが、老舗の雰囲気も味わえ、料理も堪能できた。

「韻松亭」の入り口にあったバラの花と、東京文化会館と競技場の間のイチョウ並木の紅葉の写真を掲載しておく。