『世界から称賛される日本人の美質を育んだ「教育勅語」の真実』(伊藤哲夫著、致知出版社)を読んだ。「朕(ちん)惟(おも)フニ、我が皇祖皇宗、国ヲ肇(はじ)ムルコト・・・」から始まる教育勅語に関しての知識はほとんどなかったが、できた経緯とその意味を初めて知った。建国以来の日本人の美徳を「勅語」という形で後世に残した貴重なものであり、今一度噛みしめる価値のあるものと思う。
西洋文明が一気に流入した明治維新後の日本は、国中が思想的大混乱に陥り、日本の伝統的価値観や倫理観が失われんとしていた。そのような状況を憂いた明治天皇が、当時の文相・榎本武揚に徳育の基本となる箴言を編纂するよう命じられた。その命に従い東大教授などが文案を策定したが、当時法制局長官の井上毅(名は‘こわし’と読む。伊藤博文のもとで明治憲法策定にも中心的役割を果たした)がその案に反対し、自ら草案の起草にあたった。「天皇陛下のお言葉として出す以上、それは幾世にもわたって守り通さねばならない。そのためには、念には念を入れ、心には心を込めねばならない」として、明治天皇の側近だった同郷(熊本)の元田永孚の協力を得ながら、宗派や学派に偏らず、政治色も排し「王言の体」にふさわしいものとして創り上げたものと言える。
この教育勅語は日露戦争に勝ったあと、諸外国で大変な話題になり、これが日本の団結心と規律の高さに結びつく、と評判になったそうだ。そして、これが第2次世界大戦後、逆に諸外国の脅威となり、二度と立ち上がらないよう、昭和23年に国会決議で教育現場からの排除・失効させられた。しかし、この教育勅語がなければ、その後の明治、そして大正デモクラシーという思想的大混乱期を乗り切れなかったと伊藤氏は言う。
肺結核に倒れながら、最後まで起草に携わった井上毅氏は、その5年後51歳で他界された。彼の死後、皮下注射をした医者の「よくも衰弱したるかな。殆ど一滴の血すら残さず」と言う言葉が残っているそうだ。また後の大言論人たる徳富蘇峰は「彼は実に国家のために、その汗血を絞りつくしたり」と言ったそうだ。
儒教の五倫の教えを「爾(なんじ)臣民、父母ニ孝シ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信シ」と実に簡潔な美しい天皇の言葉として表現している。また「一旦緩急アレハ、義勇公ニ奉シ」の精神は、東日本大震災で殉職された消防隊員、警察官、市の職員の方々の行動に受け継がれている日本人の美質とも言える。
教育の荒廃が言われて久しいが、今一度、世界中から賞賛される日本人の美質を取り戻すために、教育勅語を思い返してみてはどうだろうか。
教育勅語
朕惟フニ,我カ皇祖皇宗,國ヲ肇ムルコト宏遠ニ,德ヲ樹ツルコト深厚ナリ。
我カ臣民,克ク忠ニ,克ク孝ニ,億兆心ヲ一ニシテ,世世厥ノ美ヲ濟セルハ,此レ我カ國體ノ精華ニシテ,教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス。
爾臣民,父母ニ孝ニ,兄弟ニ友ニ,夫婦相和シ,朋友相信シ,恭儉己レヲ持シ,博愛衆ニ及ホシ,學ヲ修メ,業ヲ習ヒ,以テ智能ヲ啓發シ,德器ヲ成就シ,進テ公益ヲ廣メ,世務ヲ開キ,常ニ國憲ヲ重シ,國法ニ遵ヒ,一旦緩急アレハ,義勇公ニ奉シ,以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ,是ノ如キハ,獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス,又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ,子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所,之ヲ古今ニ通シテ謬ラス,之ヲ中外ニ施シテ悖ラス,朕,爾臣民ト倶ニ,拳々服膺シテ,咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。
明治二十三年十月三十日 御名御璽
私の思い起こすことには、我が皇室の祖先たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。
あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。
このような道は実に、我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、国内だけでなく外国においても間違いなき道です。私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを希(こいねが)っています。