「生き方」カテゴリーアーカイブ

車椅子のアーティストの生き方に感動!

「先天性四肢欠損症。生まれつきほとんど手足が無い(唯一左足3本の指のみ)という重度の障碍を抱えている佐野有美(あみ)さん、23歳。プロの歌手として活動する傍ら、年間約100回、講演で全国各地を飛び回り、多くの方々に感動と勇気を与えている。」(致知2013.8インタビュー記事「笑顔は最高のおしゃれ」より)

幾多の困難を乗り越えられ、「今はとても幸せ」と。その壮絶な人生体験と、そこからつかみ取った信条を聞くと、健常者である自分の生き方の甘さを感じると同時に、生き方のヒントを得ることが出来る。「悩みは、過ぎ去った‘過去’を悔やみ、‘将来’への不安から来るもの。‘いまここ’を見れば悩みはない筈。だから何も悩まず、今にベストを尽くせる」と言われる博多の歴女白駒妃登美さん(http://jasipa.jp/blog-entry/8227)。「自分が置かれた場所で精一杯咲き、そこが和やかな場になるようにすればいい。その力があるのに、ただ環境のせいにして甘えている人が多い」と言われるノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さん(http://jasipa.jp/blog-entry/7878)、曹洞宗大本山總持寺参禅講師大童法慧氏の「いま、ここ」(http://jasipa.jp/blog-entry/7593)。まさに、これらの人の言葉を実践し、幸せな心を掴んだ有美さん。早速インターネットで調べると、YouTubeにも数多く登場し、多くの人の感動を誘っている(http://www.youtube.com/watch?v=K3z48SmqPxU)。

食事や着替え、メイクに加えて、パソコン(3級検定資格を有す)の操作や字を書くのも、唯一ある左足の3本の指でこなす。水泳も100㍍泳げる。本人は、小さい頃から両親がいろいろ考えて教えてくれたからと言うが、本人の努力は想像に絶するものだったろう。本人曰く、生まれつき明るい性格だったが、その反面気が強くて自己中心的な性格だった(有美さんが生れたとき、両親は将来を考え心中も考えたそうだが、その時の有美さんの笑顔に、一緒に頑張っていこうと思い直したそうだ)。小学校(普通学校に行った)の時、周囲からいろんなことを言われて言い返していたが、一人ぼっちになった時、一人では何もできないことに気付き、自分の存在を否定しがちになってしまった。中学校でもその気持ちをひきづっていたが、友達の大切さや感謝の気持ちを大切にしながら自分を出していこうと高校に進み、友達、先生に恵まれチアリーダー部に入った。そこでも落ち込むことがあったが、先生からの「もう有美には手足は生えてこない。でも、有美には口がある。だったら、自分の気持ちははっきり伝えなさい。有美には、有美にしかできない役目がある」との言葉に衝撃を受け、チアリーダー部でもステージがある時は司会を務めたり、練習中も声だしに徹するなど自分の役割を見出していった。その先生の言葉が、今の講演活動や、音楽活動に繋がっている(歌手デビューは平成23年。その年に「あきらめないで」で日本レコード大賞企画賞)を受賞)。

有美さんは、講演で伝えたいことはとの質問に、まず「諦めない事」と言う。何かチャレンジする時「出来るか、できないか」よりも「やりたいのか、やりたくないのか」そちらの気持ちの方が大事と。それから「自分がまず輝くこと」。有美さんの座右の銘は「笑顔は最高のおしゃれ」。そして言う。「昔は自分の障碍を嫌ったり、避けていた時もあったが、いまは自分がこの体で生まれてきたからこそ大切な事を感じることが出来ているのかもしれないと思う。確かに日常生活の中で不便を感じることはある。でも、私は不幸ではないなと。いまとても幸せです。」

「いまここ」に精一杯の力を尽くす、その事の素晴らしさを有美さんは教えてくれた。頑張れ!有美さん!

ハガキ道で運命を拓いた坂田氏

私もどこかで「ハガキ道」の坂田氏ということは聞いていた。が、初めて坂田氏の記事にお目にかかり、「ハガキ道」の意義が分かるような気がした。「PHP Business Review松下幸之助塾2013年5・6月号」の記事より。

人との出会いが、こんなにも人生を変えるのかと驚いた。「ハガキ道」で有名な坂田道信氏は、少年期、青年期は病気がちで、学校でも落ちこぼれ、結婚はしたが最貧生活。31歳(1971)の時、「国民教育の父」と呼ばれた森信三先生の講演を聞いたのがきっかけで、「ハガキ道」に目覚めたそうだ。「義務教育を出たものは、あいさつと、はっきり返事をすることと、ハガキを自由に書くことが出来なければならない」との話に心を打たれ、「ハガキを書くことなら自分にもできるかもしれない。森先生のおっしゃる三つの事が出来るようになって新たな自分に生まれ変わり、人並みの人生を送れるようになりたい」と願うようになったと言う。何と素直な心で受け止められたことと驚くが、その後森先生の高弟の一人徳永康起先生の指導を受けながら「模写ハガキ(カーボン紙を使って書く)」にのめりこんでいった。

何の取り柄もない自分でも、ハガキを書くことによって心が成長し、友人が増え、人を喜ばせることが出来ると気付き、最初は徳永先生とだけのやり取りから始まり、今では全国を講演して回りながら毎日約30枚のハガキを書き続け、年賀状にいたっては2万枚送っておられる。いただいた年賀状に目を通すのに4か月を要す。そんなボリュームのハガキを扱うことから、恐らく唯一と思われるが、自宅専用の郵便番号が割り振られているそうだ。

ハガキが縁で(最初の奥様はガンで早世)、東京丸の内で働く保険のトップセールス(マスコミでも取り上げられるスーパーレディ)と結婚。現在は精進料理の教室を開く傍ら、自然素材を使った味噌やお菓子、洗剤などの通信販売を全国的に展開されているそうだが、お客さまへの奥様のハガキがリピーターの増加につながっているそうだ。ハガキの表書きは筆で、文面には「ありがとうございます」と言う言葉を入れ、一言でも相手の心に響くことを読みやすい字で書くなど、工夫が一杯あるようだ。もっとも大事なのは「上手に書こうとしない」こと。上手に書こうと言う心は自己顕示欲の表れと言う。

千葉県の「眼鏡のトヨフク」(ライバル店の進出で店をタタムことも考えた時期がある)は、坂田氏の指導で、「ハガキ道」を覚え実行したところ、リピーターが増え、今では数名の従業員で億単位の売上を上げるまでに成長したそうだ。お客さまとの人間関係を作り、お客様の食など生活実態を知り、お客様にとって喜ばれる眼鏡を提供することが出来るようになったとか。

インターネットなどの普及で、無機質なコミュニケーションが主流になる中、ハガキの効用をコミュニケ―ションツールとして見直すことも大いに意味あることと思える。ただ、ハガキの中身の工夫で、相手の方に感動を与えることがポイントになるが、それが自然体で出来るのが坂田氏のいう「ハガキ道」なのだろう。

「たのしみは・・・」で始まる独楽吟(橘曙覧)

エニアグラムで有名なシスターで文学博士の鈴木秀子氏が「致知」の連載記事「人生を照らす言葉」で紹介されている(2013.5号)のが幕末の歌人で国学者の橘曙覧(あけみ)だ。平成六年に、天皇皇后両陛下が訪米された際、当時のクリントン大統領が歓迎スピーチの締めくくりに「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」を引用して、「日米両国民の友好の心の中に、一日一日新たな日とともに、確実に新しい花が咲くことを期待する」と述べたことで再び脚光を浴びた歌人だ。また、彼の死後明治になって32年、正岡子規は源実朝以後、歌人の名に値するものは橘曙覧ただ一人と絶賛したと言う。その作品に「独楽吟」という歌がある。

その歌は「楽しみは」で始まる短歌だが、読んでみると、日常のさりげない出来事の中に楽しみや、喜び、感動を見出す歌で、鈴木氏は「人生を幸せに生きる大切なヒントを与えてくれる」と言う。いくつかの歌を紹介する。

たのしみは 3人の児ども すくすくと おおきくなれる 姿見る時
たのしみは 空暖かに うち晴れし 春秋の日に 出てありく時
たのしみは 心をおかぬ 友どち(友達)と 笑ひかたりて 腹をよるとき
たのしみは まれに魚煮て 児等皆が うましうましと いひて食ふ時
たのしみは いやなる人の 来たりしが 長くもをらで かえりけるとき

「曙覧は「清貧の歌人」と呼ばれている。その生き方は貧富と言う概念すら超え、貧しさそのものを味わっていたようにも思える。彼は凡人が見過ごしてしまいそうな何気ない日常に贅沢を見つけ出す達人でした。それはモノの豊かさでは推し量れない心の豊かさを楽しむことであった」と鈴木氏は言う。さらに『忙しい日常に振り回されていると、なかなか意識することができませんが、いま「当たり前」のように目の前に繰り広げられている現実は本当は大変な奇跡です。その命を生かしてご飯を食べ、歯を磨けることも、家族団欒を持てることも、通勤・通学できることも。』日々感謝の気持ちを持って過ごすことの大切さが、曙覧の歌を詠むと蘇って来る。

私も短歌は初めてであるが、挑戦してみた。恥ずかしながら披露する。

たのしみは 毎日ジムで 目いっぱい 汗かいたあと 汗ながすとき
たのしみは アンテナ高く ブログネタ 探してアップ コメントある時
たのしみは 人と人との 絆にあふる NPOの あつまりの時(JASIPA)
たのしみは そぞろ歩く みちばたで ひそかに咲く花 見つけしとき

日常の感動や、ささいな楽しみを思い出すために、「たのしみは・・・」と、まずは始めると面白いかも・・・。駄作でも、鈴木氏の言う「心豊かな生活を送る一つのアイディア」であることを実感できた。