NHKスペシャル司馬遼太郎思索紀行~その2~

前稿に続き、NHKのスペシャル番組「司馬遼太郎思索紀行~この国のかたち~」第2集「“武士”700年の遺産」を紹介する。インターネットでの第2集の紹介文を下記する。

第2回のテーマは、“武士”。司馬が注目したのは、鎌倉時代の武士が育んだ、私利私欲を恥とする“名こそ惜しけれ”の精神だった。それは、武家政権が拡大する中で全国に浸透、江戸時代には広く下級武士のモラルとして定着したという。そして幕末、司馬が「人間の芸術品」とまで語った志士たちが、この精神を最大限に発揮して維新を実現させた。明治時代に武士が消滅しても、700年の遺産は「痛々しいほど清潔に」近代産業の育成に努めた明治国家を生みだす原動力となった。それが続く昭和の世に何をもたらし、どのように現代日本人へと受け継がれたのか-?「名こそ惜しけれ、恥ずかしいことをするな」。グローバリズム礼賛の中で忘れ去られようとしている日本人独自のメンタリティに光を当てる。

司馬が注目したのは、アメリカ大統領ルーズベルトなども称賛した日本の武士が作り上げたメンタリティ。その伝統が引き継がれ、明治の“奇跡”とも言われる信じられないスピードでの近代化を達成した。例えば郵便局をあっという間に全国に広め、小学校を僅か8年で全国各地に整備、明治19年に近代産業の要である鉄の大量生産を実現した。鉄道もそうだ。常識的には初めての試みでかなりの時間を要する各種近代化を達成できたのは、一部の政治家や実業家の力だけでなく、日本人一人ひとりの総力を結集したものであり、日本人たちの心根だ。その心根とは、「名こそ惜しけれ」「公の意識」と司馬は言う。

その心根を持つのは小田原を中心とした関東一円の農民が土地を守るために武装した「板東武士」だと言う。平安時代、国を支配していた天皇家や公家衆は、律令制度の元土地を支配しており、庶民は重い税に苦しみ、ひとたび飢饉が起これば、そこはまさに生き地獄。平安時代末期、その地獄から逃れるために奥地に逃亡する農民が続々と現れ、公家の支配が及ばぬ奥地で自ら土地を切り開き、自立を始めた。そして、12世紀末、彼らが武器を手に鎌倉に集結。日本史上初、武士の政権・鎌倉幕府が誕生した。幕府が褒美として坂東武士たちが開拓した土地を彼らのものだと認める安堵状を渡した。自ら開梱した土地を、初めて自分のものとした喜び。それが恩義のある人に決して恥ずかしいことをしないという「名こそ惜しけれ」の精神に繋がったと司馬さんはみた。

戦国時代の北条早雲にも引き継がれ、領民と直に接する武士たちに向けて、領民たちの信頼を得るために、武士はどう振る舞うべきか日々の心得を説く「早雲寺殿廿一箇条」を作った。「名こそ惜しけれ」の精神をもった家訓だ。そして、「名こそ惜しけれ」の「恩義のある人のために」という倫理観が、戦国という時代の中で「この領国のために」と変わっていって、それが「公の意識」に繋がっていった。この「公の意識」が連綿としてつながり、明治維新へとつながったと言う。近代化を成し遂げ日清・日露と対外戦争を勝ち抜いた日本、司馬さんは「坂の上の雲」を通して、欧米列強に追いつこうと駆け上がる日本人の姿を描いた。

しかし、日本人に根づいたこの国を良くしていきたいという「公の意識」、司馬さんはその日本人が日露戦争の勝利の後、変質し始めたという。大日本帝国憲法において天皇が持つ軍の最高指揮権を指す“統帥権”。司馬は本来天皇に属する統帥権を軍部が拡大解釈して権限を広げ、国家が暴走したというのだ。司馬は最後に言う。

私ども日本社会は 士道を土台にして の“義務”(公の意識)を育てたつもりでいた。しかし、日本の近代史は必ずしもそれが十分であったとはとても思えない。いまこそ、それをもっと強く持ち直して、さらに豊かな倫理に仕上げ、世界に対する日本人の姿勢をあたらしいあり方の基本にすべきではないか。(「司馬遼太郎全講演」より)

我々、特に今の政治家も、この誇るべき日本人の特質を噛みしめ、グローバル化の波に流されず「日本を取り戻さなければならない」(自民党スローガン)と強く思う。

日本人の特質が失われつつある(NHKスペシャル司馬遼太郎思索紀行)?!

最近、日本人論というか、世界の中で特筆すべき日本人の特質を論じる本や、マスコミの記事が目立つ。”グローバル化“の波に流され日本人の特質が失われていく現実に危機感を覚えるからか?2月13日、14日のNHKのスペシャル番組「司馬遼太郎思索紀行~この国のかたち~」で第1集「 “島国”ニッポンの叡智」と第2集「“武士”700年の遺産」を興味深く観た。

番組紹介には「2016年2月没後20年を迎える作家・司馬遼太郎。作品『この国のかたち』を読み解きながら、“日本人とは何か”に迫る。ナビゲーターは俳優の香川照之さん。第1集は“辺境の島国”がどのように日本人を形づくったのかに焦点を当てる。異国の文明に憧れ、貪欲に取り入れてきた日本人。そのメンタリティーの根源に何があるのか?司馬が日本の風土や人物に見いだした「かたち」を旅しながら島国の叡智を掘り起こす。」とある。 “奇跡”と呼ばれた明治の近代化、それを成し遂げた日本、戦後焼け野原から驚異的な復興を果たした日本、そして今大きな岐路に立つ私たち日本人。第1集では、島国という視点から私たち日本人の成り立ちを探る。

司馬が注目したのは、鉄を造るための反射炉と呼ばれる装置。その高さは実に20m、熱源と原料(銑鉄)を離した位置に置き、熱の反射を利用して鉄を造り出す反射炉、全く未知の技術が必要とされた。それを江戸時代に薩摩藩が、一冊のオランダの本から日本人独自で作り上げた。昨年世界遺産に指定された際、世界遺産登録推進協議会 専門家委員のバリー・ギャンブルさんは「最初に聞いたとき、とても信じられませんでした。外国人の助けもなく、一冊の本だけを頼りに短期間でつくり上げてしまうなんて、すごいと思いました」と語る。海に隔てられた島国で長く続いた鎖国。極限まで高められた好奇心は幕末驚くべきエネルギーとなり、あの反射炉へと繋がっていった。その異国崇拝の原風景として壱岐を紹介している。異国から流れ着いたもの(男性の下半身)を神社に祭り、土地の守護神として崇拝している姿だ。

毎年東大寺で、元々あった神道と新たに伝来した仏教を統合した(神仏習合)国宝の秘仏が公開され、神職と僧侶が参加する儀式を行っている。キリスト教やイスラム教など一神教の外国からは信じられない事らしい。また、奈良の三輪山では、岩にも木々や草花にも、山そのものにも多種多様な神が宿ると信じられてきた。八百万の神々、大陸から仏教が伝来する遥か前、豊かな自然の中で日本人が育んでいた多様な神々を認める信仰だ。一見無節操にさえみえるこの何事にもとらわれない発想にこそ日本人ならではの多様な考え方が表れていると、司馬さんはみた。小さな島国の中で固有の文化と外国からの文化が融合した室町という時についても言及している。書院つくり、茶道、華道、能狂言や謡曲もこの時代に興ったそうだ。その中で、応仁の乱で水どころではなかった時、水の代わりに砂を使うという既成のものにとらわれない柔軟な発想で生まれた枯山水の庭も室町時代のものと言う。明治の近代化の立役者として、日本の土木工学のパイオニア・古市公威(1854~1934)にも注目している。

「道なき道」を、外国に対する好奇心と、外国の文化・技術を積極的に受け入れる多様性、ただ単にまねるだけでは無く、日本の風土に合わせて改善する熱意・技術力、そして古市氏に見るような“公に資する精神”(私が1日休めば、日本は1日遅れる)が相俟って奇跡と言われる明治の近代化を成し遂げた。

日本のありようによっては、世界に日本が存在してよかったと思う時代がくるかもしれず、その未来の世のひとたちの参考のために、書きとめておいた」のが「この国のかたち」と言う。晩年、日本人が無感動体質になることを危惧していた司馬遼太郎さん、今、この伝統を引き継げているだろうか?

土光敏夫の母・登美の一生

当ブログでも土光敏夫氏に関する記事を何度か掲載しているが(例えば「日本のリーダー土光敏夫(http://okinaka.jasipa.jp/archives/89)」など)、土光氏の生き方に大きな影響を与えたと言われる母「登美」の人生にも強く心を打たれる。土光敏夫や登美に関する書を出版されている出町譲氏が「致知2016.3」に「正しきものは強くあれ~土光敏夫の母・登美の一生」と言う記事を投稿されている。

土光敏夫が勲一等旭日桐花大綬章を受けた(昭和61年)際のコメントに「私は“個人は質素に、社会は豊かにという母の教えを忠実に守り、これこそが行革の基本理念であると信じて、微力を捧げてまいりました」とある。この言葉からも、土光というひとりの人間にとって、母の存在が如何に大きかったか分かる。

登美は陽気で明るく、周囲の多くの人から愛される人間であると同時に、小さい時から西郷隆盛や吉田松陰など、私心がなく公に尽くした偉人達の姿勢にも強く惹かれた向学心の塊のような人だったと言う。当時は、NHKの「あさが来た」の白岡あさの時代(幕末から大正にかけて)と同じように。「女性に学問の必要なし」と言う時代、54歳で岡山から上京したのも、一流の有識者に教えを請うためとか。登美の次女が言う。「母は常に成長していたと言う感じがしていたので晩年もあまり老人と言う気がしていなかった」と。

登美の人生のクライマックスは、横浜市の鶴見に橘女学校(現・橘学苑)を建てた事と言える。なぜ、学校の建立を思い立ったのか?当時は日中戦争はじめ対米戦争など戦争一色の時代。若い人たちが戦争に駆り出され、その有為な人生を無駄にすることを見るにつけ、「国の亡びるは悪に寄らず、その愚による」と、戦争のような愚かな行動に走らせない国民つくりが何よりも必要と考えていた。そして、子どもたちはお母さんのおっぱいを飲みながら育てられるのだから、女性をしっかり教育することが国の基礎を作ることになるとの考え方に至った。周囲が反対する中で、「香典を生きている間に下さい」と資金集めに奔走し、学校建設を宣言してからわずか3ヵ月で学校建設工事を始めると言う離れ技をやってのけたのだ。ともかく、国を愛する心、公に尽くすと言う心と言う面では西郷隆盛の存在が一際大きかったと出町氏は言う。女子教育の現場でも、「正しきものは強くあれ」など人生哲学を徹底的に教育した。

その母の薫陶を受けた土光敏夫の活躍は御存じのとおり。金権政治蔓延の中、85歳で行革の顔となり、経団連会長時代を含めて、豪勢な生活をする田中角栄に辞任を要求したり、政治献金の廃止、議員定数の削減提案など、歯に衣着せぬ物言いで、国民の評判を得た。今の時代、土光敏夫がいてくれたらと思うのは私だけだろうか。「女性活躍推進」が叫ばれ「生めよ、働けよ」が声高に言われているが、子どもの育成に占める母の役割にももっと言及すべきと考えるが、いかがだろうか?登美もまさに働く女性だったが、猛烈に働きながらも土光敏夫のような国を思い行動する人を育てた、母の力の偉大さに思いを馳せたい。

冲中一郎