フランス旅行~その2~モンサンミッシェル

前日は、モンサンミッシェルのメルキュールホテルに宿泊。ホテルに着く直前、後光がさすかの如く、雲の間から光がモンサンミッシェルに降り注ぐ姿(撮るタイミングがづれた)を、そして夕食後は夜景も見ることが出来た(フランスの夜は9時ころまで明るく、夜景を楽しめるのは10時ころ以降)。翌朝、シャトルバスでモンサンミッシェルに向かった。平日というのに混みあっているが、頻度が多いので苦にならず、5分程度ですぐ近くまで行ける。

モンサンミッシェルの起源は西暦708年に遡り隣町アヴランシュの司教が夢の中で大天使サンミッシェル(聖ミカエル)のお告げを聞き、この地に教会をたてたことから始まった。当初はロマネスク様式の教会だったが、以降大聖堂、修道院を建て、13世紀に当時の国王の寄贈により、ゴシック様式の修道院を増築。それが写真右側の3階建てのラ・メルベーユで、驚くことにこの分を16年で構築したそうだ。見学は最上部の広場から尖塔の下にある教会(サンピエール教会)から入り、ラ・メルベーユの3階から2階、1階と下りていく。まずは教会から。教会の中にある聖ミカエル像。ミカエルは、天軍の長であり、最後の審判のときに死者の心臓をはかり、天国に送るか地獄に送るかを選別する役割を果たす。いわば仏教の閻魔に当たる存在のようだ。 片手に心臓の重さを量るための天秤を提げている。

次に3階構成のラ・メルベーユだ。最上階の3階には聖職者のための「回廊」(現在修理中)と「食堂」、中層階には「騎士の部屋」と「貴賓室」、そして1階に貯蔵室、施物分配室などがあった。最上階は修道僧士たちの専用スペースで、2階の修道士たちの作業場だった「騎士たちの部屋」の隣には身分の高い巡礼者用の「貴賓室」が設けられていた。そして、1階の施物分配室では特に貧しい巡礼者は施しを受けたそうで、中世の身分社会が移されている。このメルベーユが16年という短期間に建築できたのは、“人力式クレーン ”という装置のお陰だ。轆轤につなげた水車のような大きな木製のホイルの中に4名ほど奴隷が入り、歩くことによりホイルをまわし、梃子の原理で重量物を巻き上げたそうだ。尖塔の先にヘリコプターでつけたという聖ミカエルの像(4mの高さ)も飾られている。

モンサンミッシェル観光を終え、宿泊場所トゥール(トゥール・ド・フランスで有名な)へ行く途中、“フランスでもっとも美しい村”と言われる“サン・セヌリ・ル・ジュレ”に立ち寄った。コローやクールベルなどの画家を魅了した村だそうだが、サルト川にかかる石橋、草むらに立つ小さな礼拝堂、教会、通りにならぶ風情のある家並み、なにかほっとする雰囲気がある村だ。

フランス旅行~その1~ジヴェルニー

1年半前のIS同時テロ事件のせいで控えていたフランスに行ってきた(11日~18日)。ヨーロッパの主要国としては最後の国訪問だ(中欧、南ドイツ、イタリア、イギリス、スペイン)。事前に調べた天気予報では雨模様の日が多かったが、実際は晴れの日もあり、雨に降られたのは最後のパリの日のみで、それもぱらつく雨程度で済んだため、天候にも恵まれた旅となった。ご一緒した方々も気さくないい人ばかりでより旅を楽しくさせてくれた。68日のフランス旅行記として、5~6回に分けて、モンサンミッシェル、ベルサイユ宮殿、オルセー美術館、ルーブル美術館などを紹介していきたい。

1日目は、フランスから西北西100㎞ほどのところにあるモネ(1840-1926)の愛した庭として有名なノルマンディーの《ジヴェルニーの庭園》。今の時期、この庭園は、まさに花盛り。チューリップ、桜、つつじ、水仙、ライラック、忘れな草など日本では2月から6月頃にかけての花が一斉に咲き誇っていた。それも暖色系、寒色系を使い分け、見事なコントラストで庭全体を飾っている。彼は43歳からちょうど生涯の半分をこの庭とアトリエのある邸宅で過ごし、創作以外のほとんどの時間を庭仕事にあてていたと言われる。

その中でも、モネが愛した日本の江戸浮世絵(庭園内の“モネの館”内に多く展示されている)の中で、広重が描いた亀戸天神の太鼓橋を見て、それを模したと言われている太鼓橋のある“睡蓮の池”は必見だ。日本風で竹や柳、つつじ、フジの花などで囲われており、案内板にはこの池を“Pont Japonais”(日本の池)と紹介されている。

今回の旅では、あちこちで花の乱舞を見た。1日目の三ツ星レストランでは、桐の花、ヤマブキの花、桜、ライラックの花が見事だった。バスの行程の中でも、あちこちで、菜の花畑と麦畑の黄色と緑のコントラストが見事な光景を演出していた。

その後、ノルマンディー地方セーヌ河口にある小さな港町オンフルールに寄って、宿泊地モンサンミッシェルに向かう。オンフルールは、百年戦争時代からの貿易の要衝で、栄枯盛衰を経ながらも、街並みは昔のまま維持されている(今は大型船時代となり、海に直結の隣のル・アーブルに貿易の主体は移っている)。木組みとスレート(粘板岩)の家の町並みが残り、港のヨットハーバーとの組み合わせが絵になるかわいい町だ。街のシンボル“サント・カトリーヌ教会”は、フランスで最大の木造の教会と鐘楼だ。ここでも花がきれいに咲いていた。

企業理念に基づく全員経営(オムロン)

朝日新聞で2016年9月からほぼ毎週月曜日、時代の変化に合わせて変わろうとしている企業を紹介している「カイシャの進化」の特集記事がこの3月末で終了した。これまで、トヨタ自動車、日立製作所、NTT、GE,ソフトバンクグループ、星野リゾート、日本電産、ニトリ、虎屋、すかいらーくなど多岐にわたって、会社の歴史や今の姿、これから目指す未来の姿を企業ストーリーとしてまとめ、悪戦苦闘しながら変わろうとする会社の実像を描いている。今回、先月3月20日に紹介されているオムロンの記事を紹介する。

タイトルは「“よりよい社会”理念が命」。2000年代前半、ITバブル崩壊後苦境に陥ったオムロンは、それまでは創業家社長が当たり前だったが、当時社長の創業者三男立石義男氏が、グローバル化しつつあったことも考慮し、いつまでも「立石家」ではなく、これからは“企業理念”に基づく運営をと、初めて非創業家の作田久男氏に社長を譲った。そして、2006年の創業記念日、義男氏は、「企業は社会の公器である」を企業理念に据え、こう宣言した。「企業の求心力を、創業家から企業理念に変えていく」と。そして、さらに2015年、企業理念を今の形に変えた。その考え方は「“何のために仕事をするのか”、それを考え、実現すれば強い会社になれる」。今の企業理念を掲げておく。

Our Mission(社憲)

われわれの働きで、われわれの生活を向上し、よりよい社会を作りましょう。

Our Values

  • ソーシャルニーズの創造:私たちは、世に先駆けて、新たな価値を創造し続けます。
  • 絶えざるチャレンジ:私たちは、失敗を恐れず情熱をもって挑戦し続けます。
  • 人間性の尊重:私たちは、誠実であることを誇りとし、人間の可能性を信じ続けます。

インドネシアの工場では障がい者を積極的に採用している。「政府の要請もあるが、オムロンの企業理念の実践のために重要な取り組みだ」とインドネシア工場の社長は言う。オムロンでは子会社も含めて企業理念が徹底され、全世界で行動に移すべく仕掛けもある。2012年に山田社長が始めた「TOGA(The Omron Global Awards)=オムロン世界賞」で、世界の社員が企業理念に基づくテーマでの仕事を宣言し、そのプロセスや成果を1年がかりで競う。地域ごとに役員も含めての選考を経て、5月10日の創立記念日に表彰される。テーマには、社会課題を解決するものもあり、新ビジネスとしても期待されている。今年は世界中の延べ4万6千人から5千のテーマが寄せられた。毎年増え続け、今年は社員数の3万8千人を超えた応募だそうだ。

山田義仁社長は、「大企業でも社会に必要とされなくなればつぶれる時代。オムロンも理念を忘れれば淘汰される。逆に、みんなが理念を意識した仕事をすれば、どんな波も乗り越えられる」という。社会の課題をいち早くとらえ、解決策を売り出せばビジネスにつながる。そんな取り組みが次々に生まれるような挑戦を社員に促している。

当ブログでも、CSV経営(http://okinaka.jasipa.jp/archives/4857#comment-650)や、SDGsに配慮した投資などの動き(http://okinaka.jasipa.jp/archives/6070)を紹介したが、これまでのCSR活動とは違い、社会課題の解決がビジネスに直結する経営が社会や投資家から求められるようになってきている。オムロンのように「社会が求めている明確な理念を打ち立て、全社員がその理念に基づく行動をとる」ことが今の激しい時代の変化に追随できる道かもしれない。

冲中一郎