”人生100年時代”を迎えて考えるべきことは?

人生100年時代を迎え、本やメディアで高齢者問題の課題を論ずる機会が増えてきた。五木寛之氏は著書「百歳人生を生きるヒント」で、「従来、人の寿命は50年、それ以降は余生とされてきたが、21世紀の今、人々の寿命は延び、“人生100年時代”を迎えようとしている。そこにあるのは、悠々自適の静かな老後ではなく、あとの50年をどう生きるかという、歴史が体験したことのない、未踏の世界だ」と言っている。五木氏は50歳以降の人生を長い”下り坂“との覚悟をもって生きなさいと提言する。
一方で、高齢者としての役割を認識し、社会に役立つことをしていかなければ、日本は生き残れないだろうとの提言をするのは多摩大学長寺島実郎氏。寺島氏著の「シルバー・デモクラシー(戦後世代の覚悟と責任)」(岩波新書)と「ジェロントロジー宣言(”知の再武装“で100歳人生を生き抜く)」NHK出版新書}を読んだ。少子化が進む中で、2060年には高齢化比率が40%となり(前回東京オリンピックの頃に人口1億人を超え、高齢化率は7%)、今では100歳以上が約7万人もいると言う。しかも、若手より高齢者のほうが投票率が高いことを考えると、有効投票の6割が高齢者となると言われ、まさに政治も「老人の、老人による、老人のための政治」になりかねない状況が進む。「株高誘導政治」に多くの高齢者が賛同することで、将来の日本は果たして大丈夫なのか?我々団塊世代が高齢化した今は、まだそれを支えてくれる現役世代がいるが、少子化が進む中その後の時代は若手が支えることが出来ない時代が来る!(「逃げられない世代」https://jasipa.jp/okinaka/archives/8695参照ください)

寺島氏が言う「異次元の高齢化社会」(世界の中でも突出した高齢化率)を目の当たりにし、このままではいずれ日本も現在の生活レベルを維持できなくなるのは誰もが懸念していることではなかろうか。しかし、社会制度・システムはこの状態を予測できたにもかかわらず、放置されたままだ。政府に「人生100年時代構想推進室」が昨年9月にでき、掛け声だけはいさましいが、議論の方向性も見えないままだ。

高齢化社会を福祉、年金、介護など社会的コスト負担増大との関連で論じ、何やら息苦しい老人社会と言ったイメージが広がっているが、寺島氏は、経験豊かな高齢者の知を活かし、さらには知の再武装もしながら、社会システムの中にもう一度位置づけなおし、社会に参画し貢献する主体として高齢者が活躍できる社会づくりを提案する。その意味で”老年学“的アプローチから、高齢者一人一人の生き方を再構築するための社会工学的アプローチを意味する”ジェロントロジー”と言う言葉を使っている。

高度成長期に就職した団塊の世代が東京に集中し、その結果できた16号線沿いのニュータウンに住む人は、当時は老人世帯から干渉されない自立した独立した「ニューファミリー」として注目を浴びたが、今では独居老人化がものすごい勢いで進んでいるそうだ。自ら食材を育て、地域で融通しあう田舎型高齢者社会に比べ、都市郊外型高齢者の幸福感は大きく異なる。この都会のサラリーマン卒業者中心の高齢者を“新都市中間層”と名付け、この人たちを田舎の農村との交流を深めるよう誘い、日本の農業再生に寄与する集団とすること、さらにはサラリーマン時代の経験を活かしつつ、観光事業に従事することを推進することなど、多摩大学長としてこの問題に取り組まれ、実績を挙げておられる。

期せずして、12月3日よりに日経朝刊2面の“迫真コラム”に「人生100年の生き方」の記事が連載されている。その記事の中に「人生100年時代。学校を卒業して一つの会社を勤め上げ、年金での残りの。人生を楽しむ。そんな生き方は大きく変わる」として、60代、70代の人の新しい生き方をはじめ、30代~50代の人たちもこの変化をとらえながら新しいチャレンジをする姿を紹介している。

私も100歳まで生きようとは毛頭思っていないが、現在は100歳以上人口が7万人だが、2050年には50万人を超えると予測される時代、100歳までにはまだ30年近くもある自分としても。世の中のためになることを真剣に考えねばと強く思うようになった。団塊世代の責任として、次代にツケだけを残さないためにも。

“アメとムチ”のマネージメントでは21世紀を乗り切れない!?

従来の“成果報酬”に基づく管理は、新しい発想を生む、いわゆるクリエイティブな作業にはつながらず、むしろマイナスに作用する。「成果主義では人は動かない!21世紀の職場に必要なのは自発的な動機付け」と言うのは、アメリカのベストセラー作家ダニエル・ピンクだ。「モチベーション3.0~持続する”やる気をいかに引き出すか~(ダニエル・ピンク著、大前研一訳、講談社+α文庫)の第6刷がこの8月に発行された。ダニエル・ピンクの提言の概要を下記する。

40~50年前から広範な実証実験で検証されてきた科学的アプローチでは、ダニエル・ピンクが言う”モチベーション3.0“の内発的動機(学びたい、創造したい、世界をよくしたい)が永続的なクリエイティブ性を発揮するということが実証されているそうだ。現在多くの企業が取り入れている”モチベーション2.0“は、アメとムチ、信賞必罰の管理で、古い経営者やブラック企業幹部が大好きな営業ノルマ・歩合制を課す。これらの報酬方式は、20世紀的、昭和的な大量生産時代には大いに役立ったが、これからの先進国特有の満たされた時代は、大量生産や安さだけでなく、価値の需要が高まり、マズローの欲求5段階説の”欠乏の欲求“から“成長の欲求”への変化や“自己実現の追求”段階へ向かわねばならない。すなわち、アメとムチのような外発的な動機付けではなく、心から求める”内発的動機が求められる。価値を生み出すには、真のクリエイティブ性、新たな工夫や新しい発想、創造力を個々人に発揮してもらわねばならない。

上記で言う実証実験は、数多くあるそうだが、有名な「ローソクの問題」に関しては
http://parm.hatenablog.com/entry/2016/09/01/002000 を参照ください。また、報酬ではなく内発的動機で動く事例として、マイクロソフトがプロのライターや編集者に有料で依頼し、16年間提供してきた百科事典「MSNエンカルタ」のサービスを停止したのに対し、自主的(無償)な参加で作成し続けている世界で最大の規模と人気を誇る百科事典へと成長を遂げた「ウィキペディア」を挙げる。さらには、世界中のボランティアで作成されたリナックスなど数多くのオープンソースの存在だ。これは成果報酬で動くとする”マネージメント2.0“では説明がつかない。また“内発的動機”が”報酬“により阻害される事例としては、献血の報酬化(報酬化したら献血者が半減)や、保育園でのお迎え時間の遅れに対して罰金制度を作ると、遅れる人が期待に反して増加したことなどを挙げる。

人間の本質は“”受動的で自ら行動できない“ことではなく、この世に誕生した時には”好奇心に満ちて自発的だ“と言う。何かが原因で後天的に自発性を失っている。管理主導の”マネージメント2.0“も原因かも知れない。
ピンクは、“様々な企業での”モチベーション3.0“への取組を紹介している。グーグルでは「Gメールなど素晴らしいアイデアのほとんどは20%ルールから生まれている」という。自然食品のホールフーズでは、30日間の試用期間中に一緒した従業員による投票で採用決定する。ある素材製造会社では、チームを率いたい人は、自分と働きたい人を集めなければならない。靴のザッポスベストバイなどの有名企業も積極的に新たな改革に取り組んでいる。

当ブログでも最近の動向として“ESG投資”あるいは“SDG’s”が社会的な流れになっていることを紹介した(https://jasipa.jp/okinaka/archives/7167)。利益を最大の目的として管理する「モチベーション2.0」の限界が品質検査不正などの問題で吹き出ていることを考えると、「産業人たるの本分に徹し、社会生活の改善と向上を図り、世界文化の進展に寄与せんことを期す」を経営方針とした松下幸之助の慧眼にあるごとく、企業人としての本分を取り戻し、人としての自発性、自律性を重視した働き方改革を考えなければならない時がきているのではなかろうか。
別稿の「ホラクラシー組織」(https://jasipa.jp/okinaka/archives/8774)の中で、仕事に対する熱意(エンゲージメント度)が、日本は139か国中132位の全従業員の6%であることを紹介した。今まさに”働き方改革“や、”外国人労働者受け入れ“が国会で議論されている。日本が真に働きやすい、働き甲斐のある国として世界にアピールできる国になれば、少子高齢化の中、人口が減少しても経済成長は約束できるのではなかろうか。

スロベニア・クロアチア旅行~その4~アドリア海の真珠”ドゥブロヴニク”

今日は、旧市街地をガイド付で観光後、午後と翌朝のほぼ1日間自由行動。
ドゥブロヴニクは「アドリア海の真珠」と称されるクロアチアの港町。ジブリ映画の「紅の豚」や「魔女の宅急便」の舞台として知られている。オレンジ色で統一された屋根が美しい世界遺産の旧市街地は、要塞を備えた強固な市壁が続き、特異な歴史とその景観が人々を魅了する街だ。
ドゥブロヴニクが誕生したのは614年。667年にドブロヴニクはラグーサ共和国と命名された。その後、ビザンツ帝国(9世紀)、ヴェネツィア(13世紀)、ハンガリー王国(14世紀)、オスマン朝から自らを守り、自治国家として自由を得るために、頑強な城壁を7~8世紀につくりはじめ15世紀に完成させた。1358年にハンガリー王国から独立し、オスマン朝時代の15世紀から16世紀にかけてアドリア海および地中海貿易で絶頂期を迎えた。しかし、1667年の大地震を契機に、そのころの地中海貿易の不振と相まって衰退が始まった。1806年にナポレオン軍に降伏し、ナポレオンのイタリア王国に併合されるまで、ラグーザ共和国は続いたのは奇跡とも言われる。

“旧市街”観光は、西側のピレ門から開始。北側には旧市街を見渡せる標高412mのスルジ山が見える(翌朝登頂)。門を入ると最も観光客で賑わうメイン通りプラツァ通りがある。15世紀前まではこの道は運河で、南側にローマ人、北側にスラブ人が住み抗争が絶えなかったが、時を経て双方の歩み寄りがあり、運河を埋め立ててプラツア通りが作られたとのエピソードがあるそうだ。

ピレ門を入って左側にある「フランシスコ会修道院」は、14世紀初頭、戦争から逃れるために城壁内に移ってきたフランシスコ会修道士のために作ったもの。回廊や中庭、世界で3番目に古い薬局がある。回廊の絵の下に各国の国旗が並ぶが、この修道院を要人が訪れた国を表しているそうだ(日本は2002年に黒田清子妃)。

旧市街の街並み。1667年の大地震で破壊された様子を写す壁写真もある。

ラグーサ共和国時代の総督の仕事場兼住居「旧総督邸」、十字軍戦争からの帰り道で難破した際に市民に命を救われたイギリスのリチャード獅子心王が感謝を表すために資金を寄贈して作られた「大聖堂」、税関や造幣局として作られた「スポンザ宮殿」。

ドゥブロヴニクをベネツィアの攻撃から守ったと言われる守護聖人を祭る「聖ヴラホ教会」、その前がルジャ広場で、その東側の門をくぐると旧港に出る。ここから湾内クルーズも体験できる(風のある時は要注意。木の葉のように揺れるそうだ)。

いよいよ約2kmの外壁を1周する。アップダウンの激しい道で、最高25mの高さもあるが、旧市街やアドリア海の眺めが素晴らしく、約2時間楽しみながら回ることが出来た。ここは必見だ(ただし、入場料は約3000円)。1991年の戦争の跡がまだ残る、屋根の色も未修復のものは薄汚い色のままだ。北西隅にあるミンチェタ要塞。ここからの見晴らしが最高だ。砲弾穴からの眺めは、額縁に収まった絵のよう。

翌朝、眺めが素晴らしいと言われるスルジ山にケーブルカー(実際はロープウェイ)で登った(これも往復約3000円)。天気も良く、素晴らしい光景に巡り合えた。

ホテルのビーチでは、20度そこそこの中、海水浴で楽しむ客が(ダルマチア海岸はヌーディストビーチが多いとか)。アドリア海の透明度と合わせてどうぞ。

今回も、天気に恵まれ、あっという間の6泊8日の旅だった。これまでのヨーロッパの旅とは一味違い、伝統的な建造物や美術館と言うより、景色を楽しむ旅だったともいえる。旅をご一緒した人たちも最初は「なぜクロアチア?」との問いかけに「ヨーロッパ旅行で残った最後の国だから」とおっしゃっていたが、旅が終わると皆さん「来てよかった」と感激されていた姿が印象的だった。
ご愛読ありがとうございました。

冲中一郎