東日本大震災から3年、復興は順調に進んでいる?

昨夕、安倍総理の記者会見を聞いた。「あの東日本大震災から3年。改めて、大震災によって亡くなられた方々に心から哀悼の意を表しますとともに、愛する御家族を失った皆様に心からお悔やみを申し上げます。また、今なお行方のわからない方々の御家族を始め被災された全ての方々に心からお見舞いを申し上げます。 この1年間、ほぼ毎月、被災地を訪問してきました。「用地確保が難しい。」昨年春、耳にしたのはこうした声ばかり。手つかずの土地もたくさんありました。復興を加速するため実行したことは二つ。現場主義を徹底し、役所の縦割りを打破することでありました。現場の課題を一つ一つ解決し、今や高台移転や災害公営住宅の建設は、その7割で事業をスタートしています。(中略)この1年は、大きく遅れていた復興が動き始めた1年となったと考えています。」から始まった。その後の話は、「来年3月末までに200地区に及ぶ高台移転と1万戸を超える住宅の工事を完了してまいります。」、仮設住宅への保健師などの定期巡回や子供たちへのケアなどに言及し、さらに「東京電力福島第一原発の廃炉、汚染水対策について、引き続き国も前面に立って万全を期していくことは言うまでもありません。その上で、田村市だけでなく、他の市町村でもふるさとに早く戻りたいと願う方々の思いに応えられるよう、避難指示の解除を目指し、除染やインフラ復旧を進めてまいります。」と今後の施策を述べられた。耳に心地よい言葉は豊富で、まさに安倍総理の言う施策がすべて実現できれば、それはそれで被災者にとっても嬉しいことに違いない。1年後には、ぜひとも今回の会見内容に照らし合わせて、実現度合いを評価して頂ければと強く望みたいと思います。

しかし、今回の会見内容にも少し違和感を覚えた。“被災地を毎月訪問して「用地確保が難しい」の声ばかり”とは、ほんと?「役所の縦割りを打破し現場主義の徹底の復興は思い通り進んだ」と聞こえるがほんと?これを聞いた被災民の方々はどう思うだろうか?

「致知2014.1」に「復興への道」と題した福島県相馬市長の立谷秀清氏と文学博士鈴木秀子氏の対談記事があった。元医者だった立谷市長の災害発生時と復興過程でのリーダーシップはメディアでも何度か伝えられている。地震発生時に「死者を出さない」「海岸部の人を素早く避難させる」ことを消防団に命じ、人的被害を最小限に抑えた。しかし、消防団が9名亡くなった。この責任は自分にありと判断されて、その子供たちが大学に行くまでの学費すべてを負担するとの条例を作り、その費用5億円強を寄付で賄うことが出来たそうだ。「地域の人がお互いに支え合う」システムつくりでは、無事確認を目的に、住宅を回って朝晩のおかずを提供する取り組みを始め、今でも続けておられるとか(行政支援員を雇用して)。復興住宅の用地確保のためには「復興サポート隊」を作り、地権者の家を回ってその重要性を訴える活動をされた。などなど、住民の意見を聞きながら、心に寄り添う施策を次々とうって行かれたそうだ。

復興過程では、「何しろ結果を出さないといけないんですよ。ありがちな‘やったふり’というわけにはいかないんですね。行政はよく‘自分達はここまで頑張ったぞ’というアリバイづくりみたいなことをやるでしょう。○○協議会を作って、それで仕事がおわったみたいな(笑)。だけど復興と言う大目標がある以上、結果を出すのは至上命令です。それもスピーディーに。」と、緊張感を持って市職員ともども頑張っておられる。立谷市長のこの発言こそ現場の思いであり、‘現場主義の徹底’ではなかろうか。「福島の再生なくして日本の未来はない」を心からの思いとして今回の会見内容の実現に万全を期してほしい。

ソチパラリンピック、国内の盛り上がりが今ひとつ?

オリンピックに続いて7日からソチにてパラリンピックが始まった。開会式は、オリンピック同様大きな盛り上がりを見せ、会場は4000人の観客で埋まったと報じている。しかし、日本国内では、2月のオリンピックの時に比して盛り上がり方が少ないのではないだろうか。メディアの扱いも大違いで、テレビもLIVE中継はBSスカパー(有料)しかない。東京開催に向けてもっと盛り上がってもいいと思うのだが。

聖火リレーに参加した佐藤真海さんは「パラリンピックの聖火はパラリンピックムーブメントのシンボルで、全ての選手の努力、そしてパラリンピックの価値である決断力、勇気、平等、インスピレーションを表しています。今回、私が聖火ランナーとして走らせて頂いたことで、より多くの人がソチパラリンピックに関心を持ち、その流れが2016年リオ大会、2018年平昌大会、そして2020年東京大会へパラリンピックムーブメントとして広がることを期待したいと思います。」と言っている。恐らく、東京招致に大きく貢献した佐藤真海さんにとって、東京でのパラリンピックが心配なのだろう(http://jasipa.jp/blog-entry/9205)。

初日に、金1個、銅2個を取る華々しいスタートを切った日本選手団。恐らく、今回もたった20人の選手団でオリンピック以上のメダル(目標11個以上)を獲得することになると思われる。昨晩、安倍総理は金メダルを取った加納選手に電話をされた(羽生選手への電話はニュースでも大きく取り上げられたが今回は新聞の片隅に掲載されただけ?)ことである意味ほっとしたところがある。しかし、羽生選手の金メダルの時とは、その盛り上がり方は全く違う。ところで、パラリンピックに関して「‘20何時間以上も時間かけてまた行くのかな’と思うと、ほんとに暗いですね」と言った例の森喜朗東京五輪委員長は行ったのだろうか?

テレビ局もオリンピックに比して視聴率が低いことも有って、無理して放映権をとらなかったと推測されるが、6年後の東京開催をロンドン開催に負けない盛り上がり(イギリスでは全ての競技生放送で放映)を見せるためには、テレビを含むメディアが逆に障害者競技に国民が目を向けるよう導いていくことも必要だと思うがいかがなものだろうか?選手の掘り出し、育成課題が言われ始めているが、国民の関心度を挙げる施策もより重要と思う。佐藤真海さんの懸念を払しょくさせるために国ももっと考えてもいいのではなかろうか?森さんに任せていて大丈夫かな?

ともかく、頑張れ!ソチパラリンピック選手団!

日本初の「第九」演奏はドイツ捕虜により四国の地で『心にのこる現代史』~その3~

年末の風物詩「第九」、この曲が日本で初めて奏でられたのは1918年6月1日。ウィーンでのベートーベンによる初演から94年後、場所は徳島県鳴門市大麻町板東。そして演奏者が日本に抑留されていたドイツ人捕虜たちだったとの事だ。

1914年第一次世界大戦勃発。日本はドイツに宣戦布告(日本は日英同盟の関係から戦争に参加)し、ドイツの拠点青島を日本軍が陥落させた。その際4700名ものドイツ人が捕虜になり日本各地の収容所に送られた。ところが日本には外国人捕虜の収容施設がなく、仕方なく徳島県鳴門市に板東俘虜収容所を新設、約1000人のドイツ人を収容した。板東は四国お遍路の一番札所の地でもあり、もともと地方からやってきた旅人を弘法大師の生まれ変わりと思い、大切にもてなしてきた風土があった。ドイツ人の捕虜も「ドイツさん」と呼び、捕虜をもてなしたそうだ。捕虜も街の人々に酪農のやりかた、パンの焼き方、ビールや楽器のつくり方などを惜しみなく教えるとともに、ドイツ様式の8本の石橋まで作った(今でもドイツ様式の石橋が2個残っており日独の懸け橋となっている)。収容所の中では、演奏会や演劇公演なども盛んに行われ、なんと3つのオーケストラと2つの合唱団が結成されたとか。そんな中で、技量を重ねながら取り組んだのが1918年6月1日の第九の演奏だった。

先勝国民と捕虜と言う立場を超えた暖かい交流が出来たのも、収容所所長松江豊寿所長の深い人間愛で支えられたからと白駒氏は言う。当時の政府からは「ドイツ兵を甘やかし過ぎだ」と何度も注意を受けたが、松江所長は「たとえ捕虜となっていても、ドイツの兵隊さんたちも、お国のために戦ったのだ。彼らは決して囚人ではない」との信念で、「弱者の誇りを保つ」姿勢を常に持ち続けたと言う。松江所長は、会津若松出身で、戊辰戦争で「朝敵」の汚名を着せられ、敗者の悲哀を味わった会津藩の悔しさを受け継ぎ、敗者に対するいたわりの気持ちが自然と出たのだろう。2年8カ月の捕虜生活を終えてドイツへ帰国する際に松江所長に言った言葉、

あなたが示された寛容と博愛と仁愛の精神を私たちは決して忘れません。もし私たちよりさらの不幸な人々に会えば、あなたに示された精神で私たちも臨むことでしょう。“四海の内みな兄弟なり(論語)”と言う言葉を、私たちはあなたと共に思い出すことでしょう

"第九“の演奏には「四海の内みな兄弟なり」という崇高な思いが秘められていた。ブログでも何度か紹介した感動プロデューサー平野氏(http://jasipa.jp/blog-entry/9271)は「恩贈り」との言葉を使っている。「恩返し」は恩をもらった人にお返しする事、恩をもらったのに知らんぷりをする人を「恩知らず」、もらった恩を自分の周りの人に送っていくことを「恩贈り」と。「恩返し」は当事者同士の関係性で終わるが、「恩贈り」は社会全体に広がっていく。

今、国内では「アンネの日記」が破られたり、「ヘイトスピーチ」が話題になったり、不穏な空気が漂っているが、日本人の持つ”思いやり“の精神を世界に広げ、戦争のない平和な世界を作るために、今一度「日本人の誇り」を取り戻し広げて行かねばと強く思う。白駒さんはそのために全国を駆け巡り活躍されている。

冲中一郎