我が家のベランダでスズメの赤ちゃんが育っていました。ブロックの隙間に巣を作って、その中でチュンチュン泣いており、我々が
近付くと親スズメが威嚇するので気づきました。10日ほどこんな状態が続き、気が付くと巣立ちしていました。スズメでも情が移り、雨が降ると大丈夫かなと気になり、前の緑道公園を歩いているとついつい親子連れを探してしまいます。元気でいて欲しいと望むばかりです。(写真ぼけています。近接過ぎました。親がいつも監視しています。)
「初心忘るべからず」と言う言葉は誰もが知っている言葉と思う。が、この言葉のルーツを知っている人は少ないのではないかと思われる(私も初めて知りました)。室町時代、芸の極意を残した能楽の大成者・世阿弥の残した言葉だそうだ。
この言葉は一般的に「物事を始めたときの気持ちを忘れるな」との意味で使われている。が、能楽の専門家である西野春雄法政大学名誉教授は、世阿弥の説く「初心」とは、芸の道に入って修業を積んでいる段階での未熟さの事と言う(「致知2014.7」世阿弥に学ぶ~まことの花を咲かせる生き方~より)。しかも芸能者として“未熟さ”は若い年齢のものだけにあるのではなく、各年齢にふさわしい芸を習得した者にもあり、それが幾度も積み重ねられるもので、一生涯積み重ねてきた「初心」を忘れないために稽古を貫くこと、そしてそれを子孫に伝えていくことが世阿弥の「初心」論だとも。
インターネットで調べると、「初心忘るべからず」に続いて「時々の初心を忘るべからず」「老後の初心を忘るべからず」との文言が続いている。年代に応じて、その時の自分の芸(スキル)を振り返り、その未熟さを認識し、その後の芸(スキル)の習熟に活かす。より高い所を目指した世阿弥の言葉として味わい深いものがある。
今年は世阿弥生誕650年。西野氏は、世阿弥の一流たる所以は、先輩や競争相手の良さを認め、彼らからの芸からも貪欲に学び、自分の芸を常に高めていた事だと言う。
「初心忘るべからず」にも通じる言葉として
時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になお遠ざかるこころなり
というのがある。若い時に「時分の花」が咲きほこり、周囲の人の賞賛を真に受けて自分が名人のレベルに達していると勘違いしてしまうとそこで役者としての寿命は尽きてしまう。我々にも通じる言葉だ。年を重ねても、常に自分を高める努力をし続けることが“生きる”事と言える。初心を忘れず、心したい。
「最後は金目でしょ」と言った石原環境大臣の発言が批判を浴びた。放射性廃棄物の処分場問題での発言だ。「最終処分場は30年後に県外に移設する」との条件でとりあえず大熊町、双葉町を処分場にすることで政府は進めている。住民説明会で住民は「30年後の県外移設をどうやって約束できるのか?」と詰め寄っているが、納得性のある説明は出来る筈がない。問題先送りの典型だ。
財政再建で、増税や歳出カットをいまやるべきか?地球温暖化防止のために温暖化ガスの排出を今、抑制すべきか?なども同じ問題だが、「世代を超えた超長期の問題」で、「現在か将来か、どちらの世代がやるべきか」が争点の核心だと言うのは、日経21面「大機小機」のコラム氏(風都氏)だ。先月5月16日に「世代間協調の不可能性」と題したコラムが印象に残った。「社会保障と税の一体改革」もなかなか手がつかず、次世代に禍根を残すことになりそうだが、今先送りした問題は、次世代でも先送りすることになり、結局は破たん不可避となる可能性が大きいと警告を発する。その論理は「課題に取り組む世代に何らかの利益、インセンティブが無ければ先送りする」という、経済学者サミュエルソンが1958年に出した「世代重複モデル」の論文で論じた根拠だ。つまり、世代を超えるコミットメントが必要とされるプロジェクトは、利己的合理的な人間からなる社会では実行できないのだ。これをコラム氏は「世代間協調の不可能性」命題と呼んでいる。
しかし、これでは我々を含む現在あるいは、これまでの世代のわがままが故に、いずれ日本沈没、世界沈没を待つしかないことになってしまう。温室効果ガス削減目標も各国の思惑で決まらない。昨年11月のCOP19では日本は原発停止の関係もあり25%目標を8%に修正して提示し各国から総批判を受けた。「デフレ脱却」の為との大義で公共事業などに大判ふるまいをする。ほんとに経済成長一辺倒がはたしていいのだろうか?国を統治する国会議員、官僚などはすべて「利己的合理的な人間」と思いたくはないが、将来を考えた積極的な意見が表に出てこない現実をどう考えればいいのだろうか?議員定数削減にしても全く前に進まない。真剣に次世代を含めて行く末を真剣に考え、行動を起こすことを期待したいと思うが、東京都議会のヤジに見るような、人間性をも疑いたくなる議員集団の事実を目のあたりにしてしまうとほんとに地球の将来、日本の将来が心配になってくる。どうすればいいのか、名案は浮かばないが、我々は声を上げること、そして「真の議員」を見分けて選ぶことしかないのだろうか。
昨日(1日)集団的自衛権容認を閣議決定した。「1強他弱」の政治構造の中で、国の安全保障体制を大きく変革する大事なテーマも、政権はパフォーマンスだけで、受けの良さそうな内容だけを説明し、リスクを含めた全体像を丁寧に国民に説明する事も無く、与党内部で決めてしまおうとしている。まさに「先送り」というより「害送り」にならぬよう祈るばかりだ。民主党政権のひどさが今の1強多弱の状態を招いてしまったと思うが、この怖さを深く心に刻み、今後の行動につなげていくしかない。孫、曾孫と続く将来において、現在の人達に対する恨み節ではなく、感謝の気持ちを持ってもらえるような施策が今こそ、求められているのではないだろうか?次の選挙までにはよく考えたい。