過去2回の”日本が消え去る国難”を克服できたのは?

愛読書「致知」の8月~9月号に、“元寇”に毅然と対応した執権北条時宗と、“日露戦争”勝利に寄与した明治天皇の人物鑑識眼の記事があった。共に戦力の圧倒的劣勢の中で、敗戦して居れば“日本は存在しなかった”とも言われ、今の日本存在分岐点ともいえる大きな出来事だった。

2001年北条時宗をテーマとしたNHK大河ドラマがあったが、今放映中の「鎌倉殿の13人」の北条時政、北条義時が1,2代の執権で時宗は第8代の執権だ。18歳の若さで執権になり、最初の元寇は1274年(文永:時宗23歳)のこと。元の皇帝フビライハーンが日本に朝貢を求めてきた。朝貢は元に服従することを意味する。時の鎌倉幕府は敢然と拒否。これに怒ったフビライは27000人の軍を編成し日本に来襲した。一方日本は時宗の呼びかけで集まった軍勢は5000人。10月20日朝から夜まで激烈な戦闘が続き、日本軍は劣勢の中、果敢に戦い、敵は夜襲を恐れ大半が船に戻った。その時猛烈な暴風雨が博多湾を襲い、元軍は15000人が死亡。戦意を失い逃げ去った。その7年後(弘安)、フビライは野望を捨てず、14万人の兵をもって2回目の元寇を企てる。日本も塹壕を構築、村上水軍なども戦列に加わり、敵の船に乗り込んで火を放つなど勇敢に善戦し、元軍は2か月たっても上陸できない状態が続いた。と、その時またもや農風雨が襲来、大半の兵を失い元軍は撤退。時宗30歳。

次に日露戦争(1904-1905)。8月号の「明治天皇に学ぶ日本人の生き方(日本政策研究センター主任研究員岡田幹彦氏筆)」の記事から引用。これに負けておれば、今の日本はロシア領になっていたという。たしかに、19世紀後半から20世紀にかけてほとんどすべての非西洋諸国が欧米列強の植民地・属国となったが、我が日本民族のみが近代国家として新生し独立を全うすることができたのだ。

国力差では横綱と幕下ほどの圧倒的な差があるロシア帝国になぜ勝てたのか?岡田氏が言うのは、明治天皇のもと日本人が一致団結して戦ったという精神的な要素が大きいが、中でも明治天皇の絶大な信認を受けた二人の傑出した将軍・乃木希典と東郷平八郎の働きは格別だったと言う。ロシア太平洋艦隊を撃破した東郷が、東京に戻って宮中宴会に招かれたおり、海軍軍令部長が天皇に東郷の交代を進言した折、天皇が「東郷を変えてはならぬ」と厳命。この天皇の深い信任に感動・感奮した東郷は、ロシアバルチック艦隊を全滅させ、世界海戦史上空前の大勝を遂げ、現在に至るまで世界中から絶賛されている。乃木も、最大の難戦だった旅順要塞戦において、二度にわたる総攻撃に失敗し多大な人的損害を出した。しかし、これは参謀本部が敵戦力を読み間違え、乃木率いる軍団に十分な戦力を与えなかったことが主な理由だったが、国民からは非難の大合唱が起こった。同じ長州藩参謀総長山縣有朋さえ、乃木を交代させるしかないと天皇にお伺いを立てたほど。ところが天皇は、だれよりも旅順要塞戦の困難さを洞察し、乃木で苦戦しているなら他の誰に変えてもうまくいかぬとあくまで乃木を信じられた。結果的に、息子二人が戦死するも、到底人間技とも思われない力戦死闘によりついに旅順を陥落させた。旅順を落としたことが、奉天会戦、日本海海戦、ひいては日露戦争勝利に繋がった。明治天皇の人物認識眼が日本を救ったと言える。

今を考えると、ロシアによるウクライナへの軍事進攻が半年続いている現状がある。毎日ウクライナの人たちの悲惨な状況を目の当たりにするにつけ、戦争が如何に非人間的な行為であるかを実感させられる。ウクライナ国民の死をも恐れず立ち向かう姿を見ると何とも言えない気持ちになるが、やはり戦争は絶対避けなければならない。テスラのイーロンマスク氏が日本の人口減少に関して「日本はいずれ存在しなくなるだろう。これは世界にとって大きな損失になる」と警告を発したと言う(7月号「データが教える日本危機(東京大学月尾嘉男名誉教授)」より)。世界には日本の風土、気質を評価する人も多い。中国やロシアに領土を奪われることは絶対あってはならないが、プーチンのようなリーダーと外交で何とか話し合い、戦争を回避できるように、日本には強力なリーダーが欲しい。核の傘に依存した軍事力強化だけではこの悲惨な戦争は逃れられない。No more Hiroshima&Nagasaki!を肝にきざんで!

「太平洋戦争”言葉”で戦った男たち」(NHK世紀の映像)

7月11日NHK総合夜10時からの番組「映像の世紀」を見て、戦争という非人間的な一面に対し、人間的な面を垣間見ることができ、一抹の感慨を覚えた。インターネットの番組紹介文を下記する。

太平洋戦争の勝敗に大きな影響を及ぼしたのが、米軍が急いで養成した日本語情報士官だった。暗号読解や捕虜の尋問に当たった彼らは、戦後の日本復興にも大きな役割を果たす。戦時下のテニアン島で日本人のための小学校を作ったテルファー・ムック、昭和天皇の戦後巡幸を進言したオーテス・ケーリ、川端康成のノーベル文学賞受賞に貢献したサイデンステッカー、言葉によって日本と戦い、そして日本との懸け橋となった男たちの物語。

日本全土をB29により焼け野原にし、原爆でとどめを刺した太平洋戦争。戦争というと人間の心もどこかに置き忘れ、むごいこともできるのが人間との印象をウクライナの戦争でも感じていた。しかし、上記3人に加え、最後は「日本人として死ぬ」と日本国籍を取って亡くなったドナルド・キーンも日本語情報士官の一人として戦争勝利に寄与したが、日本を知るにつれ、その人間性、文化、芸術、自然に傾倒し、戦後を中心に日本の復興に寄与した。

米国が、サイパン島制圧(1944)後、近くの島テニアン島も制圧した。テニアン島は10数年前から砂糖の生産のため沖縄の人たちが移住した島で、多くの沖縄人が犠牲になった。多くがジャングルに追い詰められ自決をしたが、9500人が捕虜としてつかまった。内2000人が子供たちだった。それを見たテルファームックは、「日本の子供たちにも将来がある」と学校を自ら作り、校長も日本人を据え、男女共学であらゆる科目を教えた。体操での子供たちの一糸乱れぬ所作に、日本人のすごさを覚え、B29で日本を爆撃して帰還した戦士も、子供たちに混じって遊んだという。ムックは、子供たちに平和な世界を目指すよう教育をしたという。

オーテスケーリは、小さいころ日本に住んでいたこともあり、ひと際日本に関心があった。戦後爆撃調査団として来日し、敗戦で落ち込んでいる日本人とできるだけ話し込んだ。ある日、高松宮殿下に会い、落ち込んでいる日本人を励ますために、天皇の地方行脚を勧めた。その半月後、天皇は人間宣言をし、地方行脚を開始した。あらゆる地で熱狂的な歓迎を受け、国民は復興に向けた大きな力を得た。ケーリの目指した“人民のための天皇になる”との思いが現実のものとなった。

サイデンステッカーは、GHQの一員として佐世保に降り立ち、日本人が復興に向けて瓦礫の後に家を建て、一生懸命働く姿に感銘を受け、この人たちはやがて世界に伍して恥ずかしくない人になるとの確信を得る。そのあと日本にとどまり、東大に入学、日本文学、日本の風習研究に没頭した。谷崎潤一郎や三島由紀夫、川端康成などとも親交を深め、本の翻訳をし、次々と世界に向け発信した。そのおかげで日本文化が世界に広まり1968年の川端康成の日本人として初の文学賞受賞となった。授賞式には川端の要請でサイデンステッカーも出席した。

テニアン学校で教育を受け沖縄に帰った子供たちも成長し、多くは沖縄の復興、世界平和を願う若い人たちを教育する立場になっていた。その子たちの同窓会が1991年に開かれそこにテルファームックが招待され、初めて日本の地を踏んだ。オーテスケーリは、同志社大学の教授や学生寮の館長を務め、学生との対話を楽しんだ。サイデンステッカーは日本を終の棲家とすることを願っていたが、残念ながら不忍池を散歩中に突然死亡。

戦争のために養成された日本語情報士官が、日本語ができるがゆえに捕虜たちや戦後の日本人との対話を可能にし、日本あるいは、日本人を知ることによって、日本を何とかしたいと立ち上がる姿に、私は何か感慨を覚えてしまった。今回の「世紀の映像」の締めを下記する。

「あらゆる機会を通じて,お互いに関わりあうこと。ともに歩み寄り積極的に働きかけ、それぞれの幸せと平和を目指すべき。」

当初、米国では日本人は自決するとき”天皇陛下万歳”と叫び、ゼロ戦のように自ら死を覚悟して突っ込む姿を見て、狂信的で普通の人種ではないと見ていたという。戦争は避けられなかったとは思うが、お互いにいかに知り合うかの努力があれば、戦争という悲劇は少なくなるのでないかと、今回の世紀の映像で強く思った。まさにウクライナの戦争は狂気の沙汰と思わざるを得ない。フェイクニュースに惑わされず、お互いに真実を知る努力が出来ればこんなことにはならなかったのではと思うが、無理なのだろうか?

働き方改革から働きがい改革へ!

「致知2022.7号」の特集のテーマは「これでいいのか」だ。記事の中で気になったのは、「日本人の働きかたはこれでいいのか」との対談記事だ。

いまや日本の世界競争力は31位、熱意をもって働く日本人はわずか5%に過ぎない状況の中、日本経済は「失われた30年」と久しく言われながら、停滞しきっている状況だ。日本の経済成長率は昭和後半の30年間が6.6%だったのに対し、平成の30年間は1.3%と、経済成長は止まり、給料は下がり、希望が持てない状況が続いている。なぜこのような状況になっているか、この状況を克服するためにはどうすればいいか、京セラとJALで稲盛氏の側近として長年仕えた太田嘉仁氏(日本航空元会長補佐)と、パーパス経営など企業経営に詳しい名和高司氏(一橋大学ビジネススクール客員教授)の対談記事だ。

稲盛氏の「働くことは、人間にとって、もっとも深淵かつ崇高で、大きな価値と意味を持った行為です。労働には、欲望に打ち勝ち、心を磨き、人間性を作っていくと言う効果がある」との主張に沿って、政府の進める「働きかた改革」に疑問を呈する。労働は自分の時間を切り売りするとの労働観ではなく、労働を通して何かを達成する、そのために志(パーパス)を持つことの大切さを訴える。名和氏は、政府の打ち出した「働き方改革」は、「ゆとり教育」の職場バージョンだと危惧する。さらに、自分の仕事を天職と思った人の生産性は2~3割違い、創造性は一桁以上違ってくると言う。”やらされ仕事“じゃなく、”やりたい仕事“に如何にするか?”働き方改革”はその動きを止めてしまっている。これを”働きがい改革“に転換させねばならない。大田氏も、JALでの成功体験に基づいて、「やらされ意識で仕方なく働いていては、絶対に成長できません。自分で進んで楽しみながら働くからこそ、やりがいを感じ成果も上がる」と言う。

稲盛氏の成功方程式「人生・仕事の結果=考え方x熱意x能力」を名和氏は「パーパス(志)xパッションxポテンシャル」と置き換え、パーパスの重要性を訴える。そして、このパーパスを社員一人一人の心に刻み込むまで、リーダーが説き続けることが不可欠と言う。そして、パーパスを形になるまで実践するために、リーダーが率先して行動しなければならないと。リーダーの日々の言動から本気さ、真剣度が 滲み出て、社員に伝わることで、一体的にパーパス経営が出来、社員の働きがいにつながっていく。

厚労省が労働時間短縮のみを目指していることを稲盛氏も問題視している。パーパスにより成果物を明確化し、その達成に向けて熱意をもって取り組み、生産性を上げて効率的に成果を実現する。その過程で能力(ポテンシャル)向上も図れる。この循環を目指すことが、結果的に労働者の働きがい、生きがいにつながり、労働時間短縮にもつながる。経営者が先頭に立って、この循環を推し進める気概がなければ、日本経済の失われた30年から脱することは不可能だとの両氏の提言に納得する。

経営経験のある私としても、反省することばかりだ。

冲中一郎