経世済民の男“高橋是清”(NHK)

NHK放送90年ドラマ“経世済民の男”第1話「人呼んで”日本のケインズ“高橋是清」(1854-~1936)が、8月22日、29日の2回にわたって放映された。第2話は9月5日、12日で「阪急電鉄・宝塚歌劇の創設者」小林一三、第3話が9月19日で「高度成長を支えた“電力の鬼”」松永安左エ門だ。前回のブログで“度重なる日本の窮地を救った重光葵”を紹介したが、戦後7度も請われて大蔵大臣を務め、度重なる経済危機から日本を救った“高橋是清”の激動の生涯をオダギリジョーが演じるドラマも非常に興味かった。「致知2015.8」にも「奮戦激闘の人“高橋是清”の生涯に学ぶ」と題した元大蔵省、現第一生命経済研究所顧問の松本崇氏の記事があった。

ドラマに見る是清の人生は、大酒飲みのお人よし、芸妓に入れ込み、使用人に子を産ませ妻妾同居をするなど自由奔放な生活に誤解を受ける面もあったが、松本氏は、是清の根底には、生来の何事も一所懸命取り組んでいく誠実さと、現場(実務)を徹底して重んじる姿勢があり、その姿勢こそが是清の人生を切り拓く原動力になっていると言う。12歳の時から英語を学び、アメリカへ語学留学を果たし、後年「明治の国際人」として広い視野と見識を持って活躍していくことになる。

語学力を買われて27歳の時文部省へ、そして農商務省の時米国で調査した特許制度を導入、その働きぶりが日銀総裁の目に留まり日銀に入って総裁も勤めた中で為替制度を導入日露戦争の為の外債発行で諸国を回り財政面から勝利に貢献した。59歳で初めて大蔵大臣として入閣。以降、最後は81歳で入閣するまで6回大蔵大臣を務めた。

まさにその時期は、世界恐慌もあり、国内では不況のどん底の中、満州事変以降の軍部の強硬な軍事費増額要請などもあり、混とんとしていた時代。是清に対する期待は、「このような危機的状態の中での景気の回復と健全財政への回帰」だった。昭和6年犬養毅首相の要請で大蔵大臣を務めたときは、まさにテロの猛威が迫る中、予算編成においてもテロに屈せず軍部の要請を抑えていった。犬養毅など要人は5.15事件などで次々テロの凶弾に倒れて行った。81歳で蔵相になり(昭和10年)、11年度の予算編成は軍部とのまさに戦いであった。是清は米ソ戦のために軍費増額を強硬に主張する軍部に日ソ戦の無益を説き、予算を抑えていった。「国防と言うものは、攻め込まれないように守るに足るだけでよい。大体軍部は常識に懸けている。(中略)その常識を欠いた幹部が政治までくちばしを入れると言うのは言語道断、国家の災いと言うべきである」と。これが軍部の怒りに油を注ぎ、翌年の2.26事件での是清の惨殺につながった。

松本氏は、是清の「随想録」の一部を是清の人生観・仕事観として紹介している。

その環境に安んじ、その職務は運命に依って授かったものと観念し、所謂天命に安んじて精神を籠め、誠心誠意を以てその職務に向って奮戦激闘しなければならない。厭々ながら従事するようでは到底成功するものではない。その職務と同化し、一生懸命に真剣になって奮闘努力するので、始めてそこに輝ける成功を望みうるのである。

是清が暗殺されなければ歴史が変わっていたかも知れない」と松本氏は言う。対立していた荒木陸軍大臣も、是清を内心では「今の内閣で真に国家の為を思っているのは、高橋ぐらいなものである」と心から尊敬していたと言われるが、軍部の大きな抵抗に抗することが出来なかった。日露戦争から満州事変を経て、ますます意気盛んな軍部を御することが出来ず、第二次世界大戦につっこんでしまったのだ。

“歴史に名を残す”ことを目指す政治家もいるが、いい意味で残すには、やはり“誠実さ”が何よりも求められると思うが・・・。

度重なる日本の窮地を救った重光葵!

今朝の日経新聞の1面コラム“春秋”に、70年前の今日、米戦艦ミズーリ上で降伏文書に署名した重光葵のことが書かれている。その前夜に残した短歌も紹介されている。

願わくば御国の末の栄え行き、我が名をさげすむ人の多きを

「降伏文書に調印した自分のような恥ずべき外相が蔑まれるような栄えある日本になってほしい」との意味だ。ミズーリ艦上で調印を終えてホテルに帰って休んでいた重光に、重大な話が飛び込んできた。マッカーサーが日本に軍政を敷こうとしているとの報告で、その布告内容は「行政、司法、立法の三権を含む日本帝国政府の一切の機能は、本官(マッカーサー)の権力下に行使せらるるものとす。英語を公用語とす」というもの。この件は日経“春秋”のコラムにも書かれているが「致知2015.7」に「重光葵~その渾身の生き方に学ぶ~」とのタイトルで作家福富健一氏が投稿されている記事にも詳しく書かれている。

この話を聞いた重光は「それはまずい。ただちに中止させねばならない」と、翌日臨時閣議を開き、布告が中止されるよう努力する方針を確認。これを受けて翌日、重光はマッカーサーを訪ね、「日本政府を通して占領政策を実行することが最も賢明である」「占領軍が軍政を敷き、直接行政の責任を取ることは、日本の主権を認めたポツダム宣言以上の事を日本に要求するもの。今回の布告は政府抜きで直接命令できるものであり、政府への信頼はなくなり国内は混乱に陥る。布告は即刻取り下げて頂きたい」と粘り強く伝え交渉を続けた。その結果、マッカーサーは重光に対し心を開き、布告の取り下げを約束し、「重光大臣、必要ならいつでも来て差支えない」と機嫌よく握手まで交わしたとの事だ。

福富氏は、重光を「小村寿太郎と並び称される外交官」と言う。A級戦犯として禁固7年の刑期を終えた後も、日米安保条約改正交渉の魁として、吉田茂の結んだあまりにも日本に不利な条約の改定交渉を米国務長官ダレスと行い、後に岸総理が改訂を成し遂げることにつながった。

昭和7年上海での天長節式典で爆弾が投げ込まれ、右足を失ったが、国歌斉唱の時故、その場を離れず隻脚の身となってしまった。1国を背負って立つもののすさまじいまでの気概を示す言葉として

自分は戦場において討ち死にの覚悟である。もし今日爆弾に倒れるとも、それは外交戦線の先端におるものの本望とするところである。自分のごときものがそれによって我が帝国の外交に何らかの魂を入れることが出来るなら望外の幸せである

との重光の言葉を紹介している。福富氏は、重光は他人の批判や悪口をまったく口にせず、しかも日本が存続の危機にあっても決して逃げず、当事者として必ず課題を克服する行動力を持ち、拘置所で一緒だった笹川良一氏に「真に男が男として惚れきるのが重光葵の真骨頂」と言わせた「真のジェントルマン」だったと言う。

日本の大きな分岐点に、重光葵のような人がいたからこそ今の繁栄があるとつくづく思う。福富氏も言う。「いくら立派な法律が完備されても、その運用の成否は人間、ことにリーダー如何であることを感じ続けてきた」と。今の政治にどこまで期待できるのか、将来に不安を感じるのは私だけだろうか?