年末の風物詩「第九」、この曲が日本で初めて奏でられたのは1918年6月1日。ウィーンでのベートーベンによる初演から94年後、場所は徳島県鳴門市大麻町板東。そして演奏者が日本に抑留されていたドイツ人捕虜たちだったとの事だ。
1914年第一次世界大戦勃発。日本はドイツに宣戦布告(日本は日英同盟の関係から戦争に参加)し、ドイツの拠点青島を日本軍が陥落させた。その際4700名ものドイツ人が捕虜になり日本各地の収容所に送られた。ところが日本には外国人捕虜の収容施設がなく、仕方なく徳島県鳴門市に板東俘虜収容所を新設、約1000人のドイツ人を収容した。板東は四国お遍路の一番札所の地でもあり、もともと地方からやってきた旅人を弘法大師の生まれ変わりと思い、大切にもてなしてきた風土があった。ドイツ人の捕虜も「ドイツさん」と呼び、捕虜をもてなしたそうだ。捕虜も街の人々に酪農のやりかた、パンの焼き方、ビールや楽器のつくり方などを惜しみなく教えるとともに、ドイツ様式の8本の石橋まで作った(今でもドイツ様式の石橋が2個残っており日独の懸け橋となっている)。収容所の中では、演奏会や演劇公演なども盛んに行われ、なんと3つのオーケストラと2つの合唱団が結成されたとか。そんな中で、技量を重ねながら取り組んだのが1918年6月1日の第九の演奏だった。
先勝国民と捕虜と言う立場を超えた暖かい交流が出来たのも、収容所所長松江豊寿所長の深い人間愛で支えられたからと白駒氏は言う。当時の政府からは「ドイツ兵を甘やかし過ぎだ」と何度も注意を受けたが、松江所長は「たとえ捕虜となっていても、ドイツの兵隊さんたちも、お国のために戦ったのだ。彼らは決して囚人ではない」との信念で、「弱者の誇りを保つ」姿勢を常に持ち続けたと言う。松江所長は、会津若松出身で、戊辰戦争で「朝敵」の汚名を着せられ、敗者の悲哀を味わった会津藩の悔しさを受け継ぎ、敗者に対するいたわりの気持ちが自然と出たのだろう。2年8カ月の捕虜生活を終えてドイツへ帰国する際に松江所長に言った言葉、
あなたが示された寛容と博愛と仁愛の精神を私たちは決して忘れません。もし私たちよりさらの不幸な人々に会えば、あなたに示された精神で私たちも臨むことでしょう。“四海の内みな兄弟なり(論語)”と言う言葉を、私たちはあなたと共に思い出すことでしょう
"第九“の演奏には「四海の内みな兄弟なり」という崇高な思いが秘められていた。ブログでも何度か紹介した感動プロデューサー平野氏(http://jasipa.jp/blog-entry/9271)は「恩贈り」との言葉を使っている。「恩返し」は恩をもらった人にお返しする事、恩をもらったのに知らんぷりをする人を「恩知らず」、もらった恩を自分の周りの人に送っていくことを「恩贈り」と。「恩返し」は当事者同士の関係性で終わるが、「恩贈り」は社会全体に広がっていく。
今、国内では「アンネの日記」が破られたり、「ヘイトスピーチ」が話題になったり、不穏な空気が漂っているが、日本人の持つ”思いやり“の精神を世界に広げ、戦争のない平和な世界を作るために、今一度「日本人の誇り」を取り戻し広げて行かねばと強く思う。白駒さんはそのために全国を駆け巡り活躍されている。