今朝の日経34面に「“ミヤザキ”忘れない~トルコ地震日本人死亡1年~」という記事が掲載されている。まだ我々の記憶に鮮明に残っているが、昨年10月に起きた600人以上の犠牲者を出したトルコ大地震の被災者救援で駆けつけていた宮崎淳さん(当時41歳)が11月の余震で宿泊していたホテルが倒壊し、命を落とされた、その宮崎さんの話だ。
トルコ東部ワン地区の支援に当たっていたが、山奥の寒村まで出向き「何は必要ですか」と丁寧に聞いて回る宮崎さんの姿を村人も覚えている。宮崎さんを取材した地元カメラマンは「世界中からワンに来た多くの救出部隊の中で、宮崎さんの活動は特に印象に残った」と。地を這うような被災地支援は地元で大きく報じられたそうだ。そんな宮崎さんの訃報に、村人の多くが泣いたと言う。この悲報以降、「ミヤザキ」と命名した施設が各地で相次ぎ誕生している。ある大学の付属歯科病院が事故直後「アツシ・ミヤザキ歯学部クリニック」に改名した。歯学の副学部長は「遠い国から命がけでトルコを助けに来てくれた日本人に敬意を表するため」とその狙いを話す。同大では、宮崎さんの功績を記録した冊子の作成予定もあると言う。イスタンブールでも、防災施設の名称を「アツシ・ミヤザキ交通教育・防災公園」と改名したが、それ以降防災意識が高まり、受講者数が例年の7倍になったとか。
宮崎さんの所属していた「難民を助ける会」や、宮崎さんと同じホテルに宿泊していて奇跡的に助かった近内みゆきさんも、トルコで引き続き活動をされていると言う。「ミヤザキ」の名前はトルコで永遠に生き続ける」と宮崎さんのタクシーの運転手を務めた人は言う。
今回の件も、歴史が語る、世界が感嘆する「日本人の美質」の一つと言える。トルコは親日国として有名である。その事例としてよく言われるのが、1985年に勃発したイラン・イラク戦争の際の、トルコ航空による邦人救出劇である。イラクがイラン領空の全航空機を攻撃対象とする発表をしたために、テヘランにいた在留邦人250名が帰国できず孤立する恐れとなった。海外に自衛隊機を派遣できなかった日本の代わりに、トルコ政府はトルコ航空機をイランに派遣。結果、イラクの攻撃設定期限直前で在留邦人はイランから脱出できた。
その約100年前エルトゥールル号事件というのがあり、それが親日となった大きなきっかけと言われている。外務省ホームページによると、明治天皇の親書の答礼として1890年に、オスマン・パシャ提督率いる総勢650名の使節団が軍艦エルトゥールル号に乗り1890年に日本へやってきた。しかし、帰路、同使節団は和歌山県串本町大島の沿岸で台風により沈没してしまう。結果、オスマン提督含む587名の乗組員が死亡する惨事となったが、付近住民の献身的な救助により69名の乗組員を救出。後に日本海軍の巡洋艦によりトルコへ帰国した、というもの。
このことが、トルコでは教科書にも掲載され、教育にも使われているため、ほとんどのトルコ人は知っていると言う。
今朝の朝日新聞のスポーツ欄にもう一つ、日本人として嬉しい話が載っている。「模範プレー、藍に勲章」、宮里藍が米女子ツアーで、最も模範的なゴルファーとして全選手間投票で選ばれたのだ。「「ウィリアム&モージー・パウエル賞」である。このようなことの積み上げが、あるフランス詩人の言葉「私はこの民族だけは滅びて欲しくないと願う民族がある。それが日本民族だ(http://jasipa.jp/blog-entry/6167)」という言葉に繋がり、日本の世界における存在感を高めることに繋がっている。まさに日本人の誇りとして、我々もこの美質を引き継いでいかねばならない。