「生き方」カテゴリーアーカイブ

気仙沼で東京出身の20代の女性が“未来の老舗作り”!!(御手洗瑞子)

東京大学を卒業後、マッキンゼー・アンド・カンパニーを経て、ブータン政府の初代首相フェローとして産業育成に従事(2010~)し、2012年に「気仙沼ニッティング」社を立ち上げた(27歳)、新進気鋭の女性社長御手洗瑞子さんが、「PHP松下幸之助塾2016.3-4」に紹介されている。

ブータンに赴任中、東日本大震災の被災地の映像にショックを受け、「日本のために働きたい」と2012年に帰国、復興支援に携わった。「被災した方々が自分で稼ぎ、自分の足で立つことのできる仕事を生みだして”誇り“を取り戻すことが必要」との感じを抱いた。その時、ブータン時代から親交のあった糸井重里さんから「気仙沼で編み物の会社をやりたいんだけど、社長やんない?」と誘われたそうだ。東京出身で気仙沼の事など分からず、編み物も得意なわけではなく悩んだが、「誰かがやらなきやならないんだ」と準備を始める。やると決めれば、「お客さまと編み手双方が幸せであること」との志をしっかり心に持って、自立できる企業を作るためには「お客さまに満足いただけるクォーリティを重視」、そしてそのために「編み手が常に成長し続けるために、常にステップアップできる環境を作る」ことを徹底的に追及する。気仙沼を「被災地」ではなく、最高品質の編み物の生産地という憧れを持たれる土地に変える

抽選販売のノルディックセーター(税込19万4400円)、オーダーメイドのカーディガン(税込15万1200円)には注文殺到。レディメイドのエチュードも人気商品で、在庫も少なく、作れば売り上げも上がるが、これは編み手が最初に手掛ける商品で、習得すればより高度なものにチャレンジしてもらうため、むやみには作らない。「気仙沼以外にも支部を作っては」との話もあるが、「編み物の盛んな東北の街、気仙沼」とのストーリーをぶれさせないことに注力するために保留している。今は気仙沼ニッティングを永続的な事業にするために、編み手さんたちとしっかり哲学を共有し、浸透させていく、そして品質基準も徹底したい、そのためには拠点は一つの方がいいと。

まだ発足して2年半、まだ始まったばかりだが、このような事業を一つの契機にして、長い年月をかけて気仙沼に根づく事業を追求し続けたいと御手洗氏は言う。気仙沼ニッティングを「未来の老舗」にしたいと、”お客さまの嬉しさと、働く人の誇り“を軸にして、これからも挑戦を続けていくと語る。

まだ30歳そこそこで、マッキンゼー、ブータン、気仙沼と、それぞれ強い志を持って突き進むそのエネルギーに驚かされる。「私は、新たな一歩を踏み出す時に、今いる状況を守りたいと思ったり、拘泥することはない。知らない土地に行くのもためらいはない。」と言い切る。バングラディシュで幾多の困難を克服してマザーハウスを立ち上げられた山口絵理子氏もそうだが、私など足元にも及ばない女性企業家は多い。「女性活躍社会」とのスローガンが掲げられているが、御手洗さんのような人がもっと働きやすい環境を整備してあげることも重要ではなかろうか。

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“消費主義社会の敵”ムヒカ元大統領来日!

4月5日から12日の予定でウルグァイのムヒカ元大統領夫妻が来日された。東京外国語大学での講演や、テレビ出演での池上彰氏との対談など高齢(81歳)にもかかわらず精力的に活動された。訪日のテーマは“日本人は本当に幸せですか?”で、特に若い人たちに聞いてみたいとの事で大学での講演となったようだ。ムヒカ大統領の名言の一部は、当ブログの「世界で一番貧しい大統領」(http://okinaka.jasipa.jp/archives/3840)で紹介した。ムヒカ氏の言葉に多くの人が感動するのはなぜだろう。自ら「足るを知り」、はた目からは元大統領がなぜこんな貧しい生活をしているのかと思う生活を、自身は「一番幸せな生活」と言い切り実践している所だろう。政治は多数決、従って多数派の生活を実践するのが一番というのがムヒカ氏の言葉だ。

「脱・成長戦略で“1億総幸福社会”を!(http://okinaka.jasipa.jp/archives/4326)」でも言ったが、経済成長必ずしも幸福ではなく、全地球人が先進国並みの一人当たりGDPを実現することを地球そのものが許容出来ない(資源、水、食料が圧倒的に足りない)。ムヒカ氏は自らを「消費主義社会の敵」と称し、「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」と言う。さらには「お金があまりに好きな人たちには、政治の世界から出て行ってもらう必要があるのです。彼らは政治の世界では危険です。お金が大好きな人は、ビジネスや商売のために身を捧げ、富を増やそうとするものです。しかし政治とは、すべての人の幸福を求める闘いなのです」とも言っている。しかし、現実は、政治とカネの問題はなくならない。

朝日新聞で「憲法を考える」と言う連載コラムが続いているが、4月5日朝刊に「“経済による国の成長”に収斂」との記事があった。自民党の憲法改正草案の前文に「我々は、自由と規律を重んじ、美しい風土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる」とある。コラム氏は、この前文を「環境破壊には気をつけながら、教育などのすべての行動は、経済成長によるますますの発展につなげなければならない」と受け止めている。この議論は、大いに分かれるところでもあり、以前も「大国志向一辺倒で良いのか」などの議論はあった。が、昨今の新自由主義運営(競争社会)やそれが生んだ格差社会の深化が世界的に大きな問題になっており、日本でも学問までが経済成長に奉仕するものであるかのように扱われがちな現状には、大学人からも意義申し立てが相次いでいると言う。アメリカの哲学者マーサ・G・ヌスバウム氏は、これを世界的な傾向として、民主主義に不可欠な諸能力が競争の中で見失われつつあると著書「経済成長がすべてか?」で警告している。「繁栄はしているものの民主的でなくなった国に住みたいと思う人はいないでしょう」とも問いかけているそうだ。

アメリカの調査会社の調査結果が公表されているが、先進7か国の幸福度はすべて20位以下、コロンビアとフィジーが1,2位を占めている。純粋幸福度(「幸福を感じている人の比率」―「不幸を感じている人の比率」)で順位付けしているが、格差が激しい国ほど順位を下げているとの分析結果には納得性がある。ちなみにコロンビアは85点、85ヶ国の平均は56、日本は28位で52点だ、アメリカは42位、43点だ。折しも14日の各新聞で「子どもの貧困格差、日本は先進41カ国中34位」とユニセフの調査結果を報じている。1985年から2012年にかけ、格差は拡大し、真ん中の所得が約177万円から211万円に上がったのに対し、最貧困層の所得は90万円から84万円に下がったと言う。9日の記事では10代、20代の社会人の59%が自動車購買予定なし(自工会調査)とあった。将来に不安を持つ多くの人たちに消費を促す政策ではなく、足らざる所を補い合ってともに生きる社会の実現こそ、国の求めるところではないだろうか?ムヒカ氏の言葉に、もっと真剣に耳を傾けてはどうだろうか。(写真出展:www.countercurrents.org

ムヒカ大統領

創業者早川徳次の理念を忘れたシャープ?!

4月4日の各新聞で下記のような報道があった。

「経営再建中のシャープを傘下に収める台湾・鴻海(ホンハイ)精密工業は、シャープの創業者、早川徳次氏(1893~1980年)の記念館をつくる検討に入った。大正時代に会社を起こし、日本を代表する総合家電メーカーにシャープを育てた早川氏の功績を顕彰する。」

「PHP松下幸之助塾2016.3-4」に歴史作家北康利氏による「早川徳次不撓不屈の男」の記事があった。北氏曰く、「世に“伝説の創業者”と呼ばれる人は、いくつもの艱難辛苦を乗り越えて成功を掴んでいるのが常だが、早川徳次が歩んだ道の峻嶮さは他に類を見ない。だがそれでも彼は挫けることなく前を向き続けた。そして挑戦することをやめなかった。(中略)今を耐え忍んでいるシャープの皆さんにその不撓不屈の人生を思い起こしてほしい」と言う。

北氏の記事を読むと、信じられない人生を歩んでいる。1歳11か月で母親の病気故に出野家に里子に出される。継母による折檻は尋常でなく、殴る蹴るは日常的で、厳寒の中、肥ツボに突き落とし、近所の人の声でしぶしぶ井戸に連れて行って氷のような水をかぶせる

ことも有ったと言う。見るに見かねた近くの祈祷師の救いの手で7歳10か月の時、かんざしや洋傘の付属品を作る金属加工を生業とする丁稚奉公先に行ったが、契約金や毎月の小遣いも継母に全部持って行かれ苦しい生活を余儀なくされた。ろくに学校にも行けなかったが、努力を怠らず、職人としての腕を磨き、「徳尾錠」(穴をあけずにベルトを締める)や、水道自在器(水道栓の先につけて蛇口を自由な方向に向ける器具)を考案し、それがヒットしたことで独立を決意(18歳10か月)し、江戸本所に仕事場を借りた。ここで名を轟かせることになる繰出鉛筆[シャープペンシル]の改良版に取り組んだ。これがまずは海外で有名になり、その波が国内に波及して売れに売れ兄と共に“早川兄弟紹介を設立、工場も本所以外に押上、亀戸と3工場を建設するまでになった。しかし、また大きな不幸が襲う。関東大震災だ。家も工場も、そして最愛の妻と二人の子どもも失い、失意の中で、会社を解散。販売を委託していた日本文具製造から借金の取り立てがあり、シャープペンシルの特許を無償提供し、技術指導のために従業員14名と共に大阪に向かう。日本文具製造を辞し、大阪の片田舎の後のシャープ本社となるとに工場兼事務所を建設し、「早川金属工業研究所」を設立(30歳)。その後も国産ラジオ受信機第一号機(シャープラジオ)の開発、そして戦後の混乱の中で倒産の危機に瀕したが、それを克服し、国産テレビ第一号(1951年)、カラーテレビと世界初のトランジスターテレビ(1960年)、世界初のオールトランジスタ電卓第一号機(1964年)、世界初のIC電卓(1966年)、手のひらサイズの電卓(1969年)と時代の先を見つめ、ライフスタイルを変える革新的発明にこだわった製品を次から次へと開発してきた。

シャープの企業理念は“いたずらに規模のみを追わず、誠意と独自の技術をもって、広く世界の文化と福祉の向上に貢献する”だ。これは早川徳次の理念でもある。今回のシャープの悲劇は薄型テレビで市場を席巻したのち、さらに超大型の投資をしたものの価格競争に巻き込まれてしまった。つまり、「いたずら」に規模の拡大をおった事が取り戻せない失敗となってしまった。これは、「質」を求めてきたシャープの歴史の中で、「量」をおったが故とも言える。

不本意にも鴻海(ホンハイ)の傘下となったが、創業者早川徳次の理念を噛みしめ、再起を図ってほしいと切に願う。

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