「日本人の誇り3」カテゴリーアーカイブ

日本にこんな素敵な人達がいたんです『こころに残る現代史』

これまでにも何度か当ブログで紹介してきた博多の歴女「白駒妃登美さん」が、1月末にまたまた本を出版された。「日本人の知らない日本がある『こころに残る現代史』」(角川書店)だ。

まず第1章では、日露戦争における影の立役者の話です。NHKの大河ドラマでも秋山兄弟や東郷平八郎、児玉源太郎などの活躍で勝利したその姿は我々にも大いなる感動を与えてくれました。しかし、表舞台に出てくる人たちだけではなく、多くの日本人がそれぞれの持ち場で、それぞれが「日本のため」と奮闘したことも勝利に大きく貢献していると白駒さんは言う。たとえば、この戦争を遂行するための資金調達に奔走した高橋是清、当時の日本の大きな後ろ盾である“日英同盟”を締結させるきっかけを作った芝五郎、日露戦争後の講和条約の仲介者となったのはアメリカだが、そのアメリカと良好な関係を築くことに貢献した金子堅太郎や大山捨松。または、ロシアの情報をえるためにスパイとして大活躍をした明石元二郎、民間人ながら満州での危険な任務を遂行した横川省三、そして、のちに「久松五勇士」と讃えられる宮古島の名もなき漁師たち・・・。これらの方々の活動内容を紹介しながら、当時、軍人も民間人も、己を捨てて、「世のため人のため」、忠実に自分の役割を果たすことで常識では考えられないような力が生まれ、圧倒的に不利な状況を跳ね返し、勝利に導いたことを説いている。一例として、「久松五勇士」を紹介する。

日露戦争で雌雄を決した日本海海戦。それが始まらんとしていた時、バルチック艦隊の航路予測がキーとなっていた。太平洋を迂回してくるのか(津軽海峡か宗谷海峡か)、それとも日本海を直進してくる(対馬海峡)のか。3つのルートに戦力を分散させるわけにはいかずレーダーもない中、目視、そしてロシアでの諜報活動などを通じて情報収集に躍起になっていた。そのような状況下で、東郷平八郎は津軽海峡に主力艦隊を配置する決断をしながら、画期的な哨戒作戦を立て(これを立てたのが秋山真之)、バルチック艦隊の動きを監視した。日本中が固唾を呑んで見守る中、ついに宮古島沖合の漁船に乗船していた奥浜牛という若者がバルチック艦隊を目撃。ロシア艦隊のロシア兵も彼の姿を確認したが中国人と勘違いし黙認。彼はすぐに宮古島に引き返し、5人の漁師が選抜されて通信設備のある石垣島まで手漕ぎのボート(サバニと呼ぶ)で通信設備のある石垣島まで行くことになった(想像を絶する必死の漕ぎ方で15時間)。石垣島に到着したが通信設備はそこから30kmの山道を歩かなければ通信設備のある郵便局に到達できません。やっと東京の大本営に打電できたのは5日後だった。残念ながら、その直前に日本郵船の貨物船が「敵艦見ゆ」と打電し、彼らの懸命の努力のかいもなく第一発見者とはならなかった。が彼らの体力の限界を超えた「俺たちが日本を守るんだ」との強い使命感に基づく行動は、多くの日本人が知るところとなり、戦前の教科書にも掲載されたそうだ。戦後は、「軍事色が強い」との理由で教科書から削除されやがて人々の記憶の中から消えていったと言う。

白駒さんは、戦時中の国粋主義を奨励しているのではなく、現在の若者をはじめ多くの日本人が、誇りを失い、政治にも関心なく(投票率の低さ)、白けている現状を嘆き、「私」のためだけではなく、もっと「公」のために生きる精神風土を取り戻せばすばらしい日本になるとの思いで、現代史の一コマを紹介されている。

第二章では「日本人の知らない日本人」として日本人の美意識を、第3章では「世界から見た日本人」ということで感謝と報恩の歴史を、第4章では「東京オリンピックと復興」と題して1964年のオリンピックでのエピソードを紹介されている。おいおい紹介していきたい。

インド緑化に捧げた一生・杉山龍丸の生涯

1月26日はインドにとって記念すべき「第65回共和国記念日」(1950年イギリスから独立)です。安倍総理も主賓として招かれ、また昨年は天皇・皇后両陛下の訪印も実現し、今後ますます日本インドとの友好親善関係が進化することでしょう。そんなインドで「緑の父」と尊敬される日本人がいる。その名は杉山龍丸、しかし、彼の功績を知る日本人はほとんどいない。私財を投じ、不毛の地と言われたインドに植林し、稲作や農作物が出来る土壌に変え、多くのインド人を飢餓から救った、その龍丸氏の人生をご子息の杉山満丸氏(九州産業大学付属九州産業高校教諭)が紹介されている(「致知2014.2」~グリーン・ファーザー杉山龍丸の生涯~記事より)。

激戦地を転戦、片肺貫通と言う重傷を負いながら奇跡的に生還した龍丸は、丁度インドがイギリスから独立した頃、出身地福岡から上京し商売を始めた。その頃、あるインド人青年の渡米費用を支援したのがきっかけで、亡きガンジー翁の愛弟子たちが訪ねてきたり、当時のネルー首相から直々に感謝と引き続きの支援要請を受けたりしていた。1962年に初めてインドを訪ねたとき、インドは砂漠化が進み、食料不足で餓死者も後を絶たない状況だった。それから間もない時期大飢饉が発生し、その飢饉は3年続き5百万人もの餓死者を出した。インドのガンジー翁の弟子たちからの懇願に黙っておられず、先祖から譲り受けた4万坪の杉山農園の土地得を切り売りして資金を作り、470㎞の国際道路沿線にユーカリを植える事業を7年かけて実施し、周辺の土地を砂漠から水分を含んだ土地に変えた。そして、地元の人たちもいぶかる稲作を提案し、見事に成功させた。さらには、ヒマラヤ山脈の南側で雨季に土砂崩れで街が流され、貯水池もだめになる丘(シュワリック・レンジ)の対策を施した。学者たちも「対策なし」とあきらめていた丘を挿し木で緑の丘に変身させ、地元を驚かせた。

なぜ私財を投入(龍丸は最後は借家暮らし)してまで、インドの緑化に人生を捧げたか。インドの大飢饉のとき、龍丸は国連に救済を頼んだが「インド政府がそれを認め救済を求めない限り手助けは出来ない」と言われた。インドはカースト制度の国で貧民の死はインド政府も黙認していたのだ。「私は罪もなく死んでいく人をそのままにしておけない」との心境を記したノートが残っているが、この時私財を投じても救う決断をしたのではないかと満丸氏は言う。日本の政府も同様、支援に手を貸すことはなかったため、龍丸のこのような活動は世の中に知られることがなかった。平成10年地元テレビ局から「龍丸の番組を作りたい」との連絡が入り、その番組の中で龍丸の足跡をたどる旅で満丸氏がインドを訪問した時、インドの人々から「ガンジーがインドの独立の父なら、龍丸はインドの緑の父だ」といって心からの歓迎を受けたそうだ。今ではこの番組がきっかけとなって、地元福岡で道徳の副読本に掲載されるまでになった。

満丸氏は、父龍丸の意志を受け継ぎ「杉山家の生きざまを後世に語り継ぐこと」と、龍丸が世界の乾燥地帯で農業の大問題と言われる塩分集積を解決する手法として推奨していた「シートパイプ暗渠工法を普及させること」に力を注いでおられるとの事です。

台湾の八田與一氏(http://jasipa.jp/blog-entry/8285)もそうだが、龍丸氏の活躍も「日本人の誇り」として語り継いでいきたいものだ。

100万人の心を揺さぶる「感動のつくり方」(その1)

昨年末(12.21)にフォレスト出版から標題の本が出版された。著者はこれまでにも何度か紹介している感動プロデューサー平野秀展氏。本の出版も10数冊に達し、企業からの講演依頼も多いそうだ(トヨタ、武田薬品、パナソニック、リコー、マイクロソフトなど一流企業多数)。平野氏に関しては「本気を出したのはいつ?(http://blog.jolls.jp/jasipa/nsd/date/2012/3/21)」など多数のブログ記事を掲載した。

プロローグの一部を紹介する。

人は、感動で動きます
どんなに辛い事や、消えてしまいそうなことがあったとしても
一つの感動体験でもう一度前を向いて
歩き出そうと思うことが出来ます
人として生きる喜びを味わい
困難をも乗り越える感動が持つ力は
きっとあなたの人生というステージを
明るく照らすスポットライトになるでしょう

平野氏は「満足」と言う言葉に反応せず、「感動」を追求すべしと説く。昨年9月の皆さんの記憶に新しい東京オリンピック招致の際のプレゼンを引き合いに出し、その構成の素晴らしさが世界を驚かせたとも言う。とかくオーバーアクションの多い欧米人に比し、奥ゆかしさを維持しながらも日本人でもあそこまで外国人を感動させうることを証明した。物質的要求が強い時代は、モノを持つことで満足していた。しかしいまは「心が揺り動かされる」ことで納得したり、共感したり、感動したりしてモノを買いたくなる時代だ。モノの品質や性能を事細かく説明して、お客さまを説得しようと思ってもなかなか買ってくれない。「企業の営業はビジネスアーティスト」と平野氏は言う。オリンピック招致のプレゼン練習を指導したニック・バーリー氏が「リハーサル、練習、リハーサル、練習、さらにリハーサル、練習」を招致委員に要求したそうだ。表情・姿勢から、喋り方まで、現地でも1週間以上、本番リハーサルを行った(顔の表情の重要性に関してはhttp://jasipa.jp/blog-entry/9175)を参照ください)。まさに俳優と同じだ。

自分が感動できる人間でないと、他人を感動させることは出来ない。最近も「感動型人材の育成」に力を入れている企業も増えてきたと聞く。今回の平野氏の本は、コミュニケーション力、プレゼンテーション力にも当然通じる、100万人の心を揺さぶる方法論だ。逐次何回かに分けて説明させていただきたい。