インド緑化に捧げた一生・杉山龍丸の生涯


1月26日はインドにとって記念すべき「第65回共和国記念日」(1950年イギリスから独立)です。安倍総理も主賓として招かれ、また昨年は天皇・皇后両陛下の訪印も実現し、今後ますます日本インドとの友好親善関係が進化することでしょう。そんなインドで「緑の父」と尊敬される日本人がいる。その名は杉山龍丸、しかし、彼の功績を知る日本人はほとんどいない。私財を投じ、不毛の地と言われたインドに植林し、稲作や農作物が出来る土壌に変え、多くのインド人を飢餓から救った、その龍丸氏の人生をご子息の杉山満丸氏(九州産業大学付属九州産業高校教諭)が紹介されている(「致知2014.2」~グリーン・ファーザー杉山龍丸の生涯~記事より)。

激戦地を転戦、片肺貫通と言う重傷を負いながら奇跡的に生還した龍丸は、丁度インドがイギリスから独立した頃、出身地福岡から上京し商売を始めた。その頃、あるインド人青年の渡米費用を支援したのがきっかけで、亡きガンジー翁の愛弟子たちが訪ねてきたり、当時のネルー首相から直々に感謝と引き続きの支援要請を受けたりしていた。1962年に初めてインドを訪ねたとき、インドは砂漠化が進み、食料不足で餓死者も後を絶たない状況だった。それから間もない時期大飢饉が発生し、その飢饉は3年続き5百万人もの餓死者を出した。インドのガンジー翁の弟子たちからの懇願に黙っておられず、先祖から譲り受けた4万坪の杉山農園の土地得を切り売りして資金を作り、470㎞の国際道路沿線にユーカリを植える事業を7年かけて実施し、周辺の土地を砂漠から水分を含んだ土地に変えた。そして、地元の人たちもいぶかる稲作を提案し、見事に成功させた。さらには、ヒマラヤ山脈の南側で雨季に土砂崩れで街が流され、貯水池もだめになる丘(シュワリック・レンジ)の対策を施した。学者たちも「対策なし」とあきらめていた丘を挿し木で緑の丘に変身させ、地元を驚かせた。

なぜ私財を投入(龍丸は最後は借家暮らし)してまで、インドの緑化に人生を捧げたか。インドの大飢饉のとき、龍丸は国連に救済を頼んだが「インド政府がそれを認め救済を求めない限り手助けは出来ない」と言われた。インドはカースト制度の国で貧民の死はインド政府も黙認していたのだ。「私は罪もなく死んでいく人をそのままにしておけない」との心境を記したノートが残っているが、この時私財を投じても救う決断をしたのではないかと満丸氏は言う。日本の政府も同様、支援に手を貸すことはなかったため、龍丸のこのような活動は世の中に知られることがなかった。平成10年地元テレビ局から「龍丸の番組を作りたい」との連絡が入り、その番組の中で龍丸の足跡をたどる旅で満丸氏がインドを訪問した時、インドの人々から「ガンジーがインドの独立の父なら、龍丸はインドの緑の父だ」といって心からの歓迎を受けたそうだ。今ではこの番組がきっかけとなって、地元福岡で道徳の副読本に掲載されるまでになった。

満丸氏は、父龍丸の意志を受け継ぎ「杉山家の生きざまを後世に語り継ぐこと」と、龍丸が世界の乾燥地帯で農業の大問題と言われる塩分集積を解決する手法として推奨していた「シートパイプ暗渠工法を普及させること」に力を注いでおられるとの事です。

台湾の八田與一氏(http://jasipa.jp/blog-entry/8285)もそうだが、龍丸氏の活躍も「日本人の誇り」として語り継いでいきたいものだ。

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