「日本の課題」カテゴリーアーカイブ

東日本大震災時の自衛隊の活躍には目を見張った

「致知2013.1号」のインタビュー記事に「護国への変わらぬ思い」と題して、東日本大震災の際、約7万人の陸上自衛隊の陣頭指揮に当たった第31代陸上幕僚長(現三菱重工顧問)火箱芳文氏の話があった。自衛隊員の被災者および日本を想う献身的な活躍と、それを統率したリーダーシップに感銘を受けた。

防衛省で幹部会議中だった。地震発生後、東北方面からの情報を受けて、現存する災害対処計画の枠を超えて、全国の部隊を集めることを決断し、各方面の総監に東北地方に向かうように指示を出された。地震発生から30分後には全国の部隊が東北に向かって動き出した。本来、これだけの部隊を動かすには閣議決定による大臣命令が必要だが、処分覚悟で幕僚長の判断で動かしたそうだ。津波対応で水につかりながらの生存者捜索、ご遺体の収容に加えて、飲み物や食べ物などの生活物資の供給・配布にも注力した。トラックも来られないような状況の中で、都道府県からの救援物資を陸上自衛隊駐屯地に集め、航空自衛隊が花巻、松島、福島空港まで運び、それを陸上自衛隊のトラックで被災地に運ぶという自衛隊全体の連携プレーで避難所まで届けることが出来た。

7万人の隊員皆さんのご苦労も並大抵のものではなかった。毎日損傷を受けた何百体と運び込まれるご遺体収容作業をしていると、心的外傷後ストレス障害の発症も予想されたため、メンタルヘルスチームも派遣した。特に原発対応は放射線との戦いの中で、隊員の健康を損なうことが心配だったが、「俺がやります。行かせてください」と使命感に燃える隊員たちが次々名乗りを上げてくれたと言う。あまり効果がなかったと叩かれたヘリコプターからの水かけも日本を護るとの決死の思いで真上から、そしてより近づいて水をかけるという過酷な作業だった。

火箱氏は、隊員たちにはほんとに頭が下がる思いといいながら、「隊員たちがこれら大変な作業をやり始めたからこそ、事故と闘っていた東京電力や東京消防庁など他の省庁の職員の人たちのモチベーションを上げるキッカケになったのではと思う」と言う。「何よりも米国政府が本気になり、トモダチ作戦により強力な支援を開始したという意味では大きかったと思う」とも。

そのリーダーシップと、隊員の使命感に基づく行動の凄さが、周囲をも動かし、より大きな力となって拡がったことを思うと、今回の自衛隊の活動の意義は想像以上のものと言える。火箱氏は、「今、日本を取り巻く情勢は厳しいが、自分の国が如何に素晴らしいかを自覚し、多くの国民がこの誇るべき国を潰してなるものかと思うことで、再び蘇ると思う。すばらしい歴史や文化、伝統と言うものを子供たちにもっとしっかりと教育すべきだ」とも言う。全く同感だ。

台湾で最も愛される日本人八田與一

日清戦争で勝利し、第二世界大戦で敗北するまでの50年間(1895~1945)台湾は日本が統治していた。欧米が戦争で勝った国を植民地とするのは、人や資源を搾取し、奴隷化することが目的だったが、日本は統治国を日本の一部として、国のインフラ整備や教育などに力を入れる施策を取ってきた。当時の台湾総督府では、都市計画の策定・実行や、学校の建設、鉄道建設、水利施設の整備など、台湾を日本以上の国にするための施策を打った。

その中でも、24歳の時(1910年)に台湾総督府に技手として勤務した金沢出身の八田與一氏は、56歳に亡くなるまで、ほとんど全生涯を台湾のために尽くし、今でも「台湾でも最も愛される日本人」として台湾の人の心に生き続けている。

台湾南西部の嘉南平野にある当時アジア一と言われた烏山頭ダムの建設と1万6000キロにおよぶ灌漑用水路の建設に携わり、それまでサトウキビさえ育たなかったと不毛の地域を、台湾最大の穀倉地帯にした。人間味ある現場責任者として、農民に親しまれたそうだ。10年にわたる大工事の最中、不幸にもトンネル工事で50数名が殉職した際、遺族全戸を回り、工事の継続をお願いしたというエピソードもある。場所は植民地である。

1600㍍以上の堰堤といい巨大な烏山頭ダムが完成し、轟音をたてて躍り出た豊かな水が、嘉南平野に張り巡らされた水路に流れ込み、みるみる一帯を潤した姿を見た農民は「神の恵みだ。天の与え賜うた水だ」と歓喜の声をあげたそうだ。八田氏はその後、台北に移り、太平洋戦争でフィリピンに従軍する船が撃沈され亡くなられた。戦争に負けて、台湾にいた日本人は全員日本への帰還を命ぜられたが、八田氏の奥様は、烏山頭ダムの放水口に身を投げ八田氏の後を追われた。

烏山頭には夫妻の銅像が立ち、命日には毎年追悼式が行われている。中学校の歴史教科書にも掲載され、学校教育の場でも語られている。昨年には「八田與一記念公園」が開園し、今年には記念切手が発売になり、1000年近くたっても今の台湾の人たちに語り継がれている。昨年の東日本大震災時、台湾国民の募金として200億円が日本に贈られた。この額が、世界一だったと言うことで台湾の多く人たちが喜んだとの報道もあったが、まさに八田與一氏への恩返しと言う意味があったのかも知れない。

お客様よりお客様の家づくりに熱心であろう

標記を基本理念として掲げ発展を続ける工務店が浜松にある。一条工務店だ。今朝の日経6面の“活かす企業人”に一条工務店宮地剛社長が「顧客のために考え抜く」熱い人材に”と題して求める人材像について述べられている。以前、“「おもてなし経営」を実践する都田建設(http://jasipa.jp/blog-entry/7041)”で紹介した都田建設も浜松だが、気風として浜松には「お客様のために」との気風があるのだろうか?

1978年創業の木造注文住宅メーカーで、2011年度の販売戸数が8596個で木造住宅メーカーでは全国2位の企業。グループ売上も2400億円以上。宮路社長は「株式公開もせず、宣伝活動にも注力してこなかったため、一般の方にはなじみが薄いかもしれない」と言われるが、その中でこの業績を上げられるのは、それなりの理由があるのだろう。

「お客様よりお客様の家づくりに熱心であろう」との理念のもと、「住まいの性能の差は、暮らしの差」と考え、家の性能を追い求め続けている。まずは、実現困難と言われた戸建て住宅の免震化に、普及可能な性能とコストで1999年に成功し、この「免震住宅」の受注実績は、主要住宅メーカーにおけるシェア8割強と圧倒的な地位を確保している。さらには、省エネ住宅としての断熱性能は国の基準値の約4倍。太陽光発電も、初期支出をゼロにし、搭載費用を入居後の発電による売電益で賄う「夢発電システム」を用意し、現在搭載率は88%強と業界トップ。この夢発電システムはさらに進化していると言う。

このように発展をし続けるための求める人材は、「自らのミッションに対し、しぶとくとことんやり抜く“熱い人”」と言う。「たとえお客様が“それでいい“とおっしゃっても、疑問が少しでもあればよしとせず、お客様の為に、納得でき、満足できるまで”考え抜く“人材とも言える」と。さらに続けて「当社では”とりあえず頑張る“というのは目標になりません。目標と期日はあくまで具体的かつ明確に定め、その実現に向け自ら行動する。そのための支援は決して惜しみません」と言う。そのため、入社歴などに応じた画一的な教育ではなく、個人ごとの習熟度に応じた「テーラーメイド型研修制度」を用意。ITを駆使して課題解決の進捗を個別にチェックするそうだ。自分で受けたいプログラムを選び、順番にこなす「スタンプラリー型」の制度もあるとか。

ジョンソン・エンド・ジョンソンなど外資系の経営に携わってこられた、新将命(あたらしまさみ)氏は「人の採用、不採用の決定時、心がけているのは、価値観が共有できそうな人か、もう一つは目に光があるかどうかが決め手」と言う。「目に光」とは、目を見れば熱き人材かどうか、問題意識を持ち、意欲がある人かどうかという事。「目は口ほどにものを言い」どころか「目は口よりもものを言い」だと言っています。

「お客様視点」で物事を考え、「お客様のため」を思って情熱を燃やし、妥協しない人材を求めるのは、IT業界でも同じである。